第五十六話 今この瞬間に在るために
政に関する会話を、時に密談らしいものを、確かに耳にしたことはある。そのどれもが当時の自分にとっては遠い世界の出来事でしかなかった。
これから新しい知識を得ることで過去の記憶が突如として意味を持ち、それがテオバルトやこの国の助けになるのだとしたら——その考えが頭を過ぎった瞬間、それが本当に正しい選択なのかという迷いも押し寄せてくる。
まるで暗い海に投げ込まれたように、答えの見えない不安がじわじわと全身を包み込む。
テオバルトは外務卿として、マティアスは参謀局長として、共に政の中枢に携わる立場にある。その中で自分の過去に何か価値があると期待されることは、決して単純な喜びではなかった。
あの国で自分がどのように利用されていたのか、でも今なら分かる。輝かしい歌姫という役割はただの宮廷の飾りである以上に、政治の道具としての価値を求められていたのだと。
思い出すだけで胸が軋むような記憶。けれど、今の自分には過去の痛みから目を背けるのではなく、自分の意思で前に進む道を選ぶことができる。オフィーリアは深く息を吸い、一つ一つの言葉を慎重に選びながら口を開いた。
「……それが過去の断片的なものである以上、お役に立つかどうかも分かりません。ただ、もしそうであるのでしたら、テオバルト様のご判断を仰ぎ、その上で、適切な形で——」
「兄上」
オフィーリアの声を遮ったテオバルトの声は静かでありながら、否応なくその場の空気を引き締めた。琥珀色の瞳が真っ直ぐにマティアスを捉える。
「如何なる理由があろうと、私は彼女を政治に利用するつもりも、誰かに利用させるつもりもありません」
低く落ち着いた声は明確に相手へ圧力をかけるような重さを持っている。
「それは彼女が持ち得る情報に関しても同様です。この点についても大公閣下の確固たるご理解を得ています。そしてその意向は、我が国の方針そのものと見なされるべきです。この場で異議を唱える余地はありません」
感情を完全に抑え込んだその口調には、かえって断固とした決意が滲んでいるようで。その声が揺るぎなく響くたびに、オフィーリアの胸は揺さぶられる。テオバルトは先の先まで考えて動いてくれている。すべて、自分を守るために。
けれど同時に、再び口にされた「大公閣下」という名が、胸の奥に小さな波紋を広げる。自分に関することが、いつの間にかそのような高位の方々の間で語られている——その事実の重みを、今はまだ十分に受け止めることができなかった。驚きと戸惑い、そして言いようのない感謝が、複雑に胸の内で交錯する。
テオバルトはこちらを見る。その視線には先ほどまでの冷徹さは消え、代わりに静かな温もりが宿っている。
「あなたも今後、そのような話を持ちかけられても応じる必要はありません。私が適切に対処しますから、すぐに報告してください。いいですね」
まるで事務的な指示のように淡々と告げられた言葉だったが、その端々には絶対的な庇護の意思が滲んでいた。オフィーリアは黙って頷く。
「周囲がその意向を汲んでくれるなら、いいんだけどね」
マティアスの言葉は皮肉めいた軽さを帯びていたが、その現実的な懸念が潜んでいた。
「全員が大公閣下に従順とは限らないでしょう。まぁ、それはわかっていると思うけど」
テオバルトはその言葉に対して何の反応も見せなかった。ただ、わずかに指先が硬く組まれる——その仕草だけが、内に秘めた強い決意を物語っていた。
「……少し踏み込みすぎではないか」
シークベルトの落ち着いた声が、しかし確かな威厳を持って言葉を紡ぐ。意図的に抑えられたようなその口調が、むしろ室内の緊張感を増幅させる。その翡翠の瞳が一瞬、オフィーリアに向けられる。その眼差しには興味や疑念ではなく、むしろ慎重さと配慮が宿っているように見えた。
「お前の立場上、懸念点があるのは理解できるが、しかし限度がある」
刺々しさのない、むしろ弟を諭すような温かみのある声。それを聞いたマティアスは一瞬だけ眉を顰めたが、すぐに口元に意味ありげな微笑みを浮かべた。
「兄上には関係のない話です」
軽く流すように返すその態度に、ジークベルトの表情は動かない。
再び室内には緊張した空気が再び満ちる。その静けさの中で、オフィーリアは自分の手元に視線を落とした。指先が無意識にカップの縁をなぞる。
マティアスがゆったりと椅子に背を預け、紅茶のカップを手に取る。その仕草には優雅さが漂い、先程までの鋭さを微塵も感じさせない。しかし、次に紡がれた言葉は、静かな水面を切り裂くようだった。
「不当な扱いを受けていたということだけれど——それは、誰かの意向によるものだったのかな」
その問いが落とされた瞬間、オフィーリアの意識は暗闇の中へと引き込まれていく。
窓から差し込む月明かりだけが、暗い部屋の中で細く揺れている。誰かの声が廊下を通り過ぎるたび、息を殺して耳を澄ます。声を失くした喉が痛み、目の奥が熱く疼く。部屋の隅に吹き溜まる闇が、まるで自分を呑み込もうとするようで——
「どちらにせよガレス王には、あなたを守るつもりがなかったということかな」
マティアスの穏やかな声が、しかし鋭い刃となって胸を貫く。視界が歪み、自分の心臓の音だけが、やけに大きく耳に響いていく。
「兄上。どうしてもその答えが必要なら、私からお話しします」
隣でテオバルトが身を僅かに前に傾けるのが分かった。その声には苛烈な怒りが滲み、琥珀色の瞳に宿る炎は、もはや理性では抑えきれないほどに燃え上がっている。
しかしマティアスは微笑を浮かべたまま首を横に振った。
「きみには聞いていない」
「これではまるで尋問だ。お前らしくないぞ、マティアス」
ジークベルトの声は静かでありながら、確かな重みを持っていた。その翡翠の瞳には、弟への戒めと、オフィーリアへの配慮が混在しているようだった。長兄としての威厳を帯びた言葉は、これ以上の追求を許さないという意思の表れのよう。
だが、それにさえマティアスは少しも動じることなく、ゆっくりとカップを置く。その仕草にはどこか劇場での一場面を演じるような優雅さがあった。
「これから彼女に近づいてくる者たちが、必ずしも好意的とは限らないからね」
三人の会話が、どこか遠くに聞こえる。オフィーリアの意識は未だ、まるで深い霧の中を彷徨っているかのようだった。過去の記憶と現実が、ぼんやりと重なり合う。
自分があのような環境に置かれた理由——そこに本当に深い意図があったのだろうか。それとも、ただの偶然だったのか。記憶を手繰り寄せようとすると、まだ完全には癒えていない心の傷が疼いた。
視界の端で、テオバルトの拳が軽く震えているのが見える。普段あんなにも冷静な人が、ここまで感情を剥き出しにするなんて。それが全て自分のためだと思うと、胸が熱くなる。その想いが、不思議と力となって心に染み渡っていく。
オフィーリアはゆっくりと意識を現在へと引き戻していく。瞼を閉じ、ゆっくりと息を整える。今、自分の中にあるのは恐れでも怒りでもない。ただ、すべてを受け入れた上での、静かな理解。
目を開けた時、オフィーリアの瞳には確かな光が宿っていた。マティアスの真意が、今ならはっきりわかる。これは単なる試問ではない。これから自分が向き合わなければならない現実への、優しくも厳しい準備なのだ。
「おそらく、陛下は単に私への興味を失われただけなのだと思います」
その言葉が紡がれた瞬間、部屋の空気が変わる。四人の視線が、静かにこちらへと注がれるのを感じる。
「歌姫としての役目を果たせなくなった私に、もはや王宮で過ごす価値はないと。そう判断されたのかもしれません」
一呼吸置いて、オフィーリアは言葉を続ける。その瞳には、不思議な温かさが宿っていた。
「たとえあの境遇が誰かの思惑によるものだったとしても、その方を恨む気持ちはございません。むしろ……」
言葉を選ぶように、オフィーリアは一瞬だけ目を伏せる。その仕草にはかつての臆病さではなく、慎重に想いを紡ごうとする凛とした美しさがあった。
「もし、あの経験のすべてが、テオバルト様との出会いに繋がっていたのだとしたら。あの日々は、幸せとは呼べないまでも、私にとって決して不幸なことではなかったのかもしれません」
その言葉はまるで静かな水面に落とされた一粒の滴のように、確かな波紋を広げていく。マティアスの瞳に満足げな光が宿る。ジークベルトの表情にも、微かな安堵の色が浮かんだように見えた。
「今この瞬間に在るために、あの闇も必要だったのだと。そう思えるようになったのは、すべてテオバルト様のお陰です」
その言葉に込められた想いの深さに、部屋の空気が一瞬静まり返る。テオバルトの横顔に、言いようのない感情が浮かぶ。彼の琥珀色の瞳は先程までの劇場を失い、代わりに深い愛おしさを湛えていた。
「よくわかった」
マティアスの声が、まるで暖かな陽射しのように室内に満ちる。その口調には、先ほどまでの鋭さは影を潜め、代わりに兄としての温かみが滲んでいた。
「厳しく聞きすぎたことは謝るよ。これからきみは様々な視線に晒されることになる。言いたくないことを無理に話す必要はない。だが、動揺を見せることは相手に隙を与えることになる。特に、エストリエとの関係を探ろうとする者は少なくないだろうから」
その言葉の一つ一つが、オフィーリアの心に深く沁み入っていく。今この瞬間まで気付かなかった現実が、少しずつ形を成して見えてきた気がした。
「……厳しいお言葉が、私のためであったことは理解しております」
オフィーリアの声は静かで、けれど確かな決意が込められていた。試されることが苦痛でなかったわけではない。それでも、この場でのやりとりが、自分に何かを気付かせてくれたのだと、彼そう感じていた。これから自分が向き合わなければならない現実を、より明確に理解できたような気がして。
沈黙が満ちた瞬間、それまで静かに様子を見守っていたヘムルートが穏やかに声を重ねた。
「さて、少し緊張が高まりすぎたようだね。紅茶も冷めてしまった。新しいものを用意させようか」
柔らかな微笑みを湛えながら、控えていた使用人に目配せを送る。その何気ない仕草が、凍りついた空気を溶かしていくようだった
使用人の手際良い動きによって全員分の紅茶が用意されると、淹れたての紅茶の香りが先程までの緊張を優しく包み込んでいく。
「……お気遣い、ありがとうございます、父上」
テオバルトの声にはまだわずかに怒りの残り火が残っているものの、次第に普段の落ち着きを取り戻していった。
彼は静かにオフィーリアへ視線を向け、その手元のカップを見つめる。その眼差しには、先程までの激情は影を潜め、代わりにいつもの——深い愛情が滲んでいた。
「どうぞあなたも、温かいうちに召し上げってください」
「……はい、いただきます」
オフィーリアがかすかに頬を染めながらカップに口元を運ぶのを見届けると、テオバルトは椅子に深く腰を落とし、小さく息を吐いた。まるで長い嵐の後の静けさのような安堵が、その仕草には滲んでいる。
「それにしても、不思議な巡り合わせだね」
ヘムルートの温かな声が静かに室内に響く。
「かつて宮廷で出会ったお嬢さんが、今は息子の婚約者として目の前にいるとは」
その言葉に、オフィーリアは品良く頬を染めながら微笑んだ。
「最後にお目にかかってから六年余りの時が経ちました。私のような者を記憶に留めて下さったこと……大変光栄に存じます」
「あなたのような印象深い方を忘れるはずがない」
温かな目配せを向けながら、ヘムルートは茶目っ気を含んだ声を添える。
「しかしテオバルトは少々真面目過ぎるところがあるだろう。それでも、どこに惹かれたのか——是非とも聞かせてもらいたい」
思いがけない問いに、オフィーリアは一瞬目を瞬かせた。心が波立つのを感じながら、静かに呼吸を整える。カップをそっとテーブルに置き、小さく微笑む。
「それは——」
口を開きかけたものの、一瞬だけ視線を伏せる。その胸中でさまざまな想いが交錯する中、オフィーリアは静かに息を整えた。自分の言葉で、丁寧に伝えなければならない——そう心に決めて。




