第五十五話 蒼玉の誓約
「兄上。彼女をこの国に迎えた経緯については、私から説明いたします」
テオバルトの声は凛として、しかし深い温もりを湛えていた。オフィーリアは思わず息を呑む。テオバルトの視線が、一瞬だけオフィーリアを捉えた。琥珀色の瞳に宿る静かな炎が、オフィーリアの不安を優しく溶かしていく。一呼吸置いて、テオバルトは家族の方へ視線を戻す。
「声に不調をきたして以降、彼女が受けていた扱いは著しく不当で、決して許されるものではありませんでした。誰かが手を差し伸べなければならない状況で、私が動ける立場にあった。それがすべてのはじまりです」
テオバルトの声には迷いがなく、その言葉は部屋の空気を静かに震わせた。
「彼女を迎えるにあたって結婚という形を選んだのは、それが最も適切な方法であると判断したからです。しかし彼女と共に過ごすうち、彼女自身が持つ強さや優しさに触れ、その存在が自分にとって大切なものだと気付きました。今では、この選択が正しいと確信しています」
オフィーリアは密かに、そっと息を吐き出す。心の奥で疼くような感覚が広がっていく。
彼は何故、自分に結婚を申し込んだのだろう。その問いは今でも時折、胸を掠めていく。どれだけ記憶を辿っても、歌姫として過ごした日々の中に、彼との確かな出会いは見つからない。
けれど今、家族の前で自分のことを語る声を聞いていると、すべてが腑に落ちるような気がした。最初から純粋な愛だけではなかったのかもしれない。でも、それはそれでいいのだと、オフィーリアは心の底から思う。
かつて銀月の歌姫として輝いていた自分に、彼が心を寄せてくれていたことは紛れもない真実。それは今でもオフィーリアの誇りであり、大切な宝物。例え同情や責任感が切っ掛けだったとしても、それもまた、彼らしい優しさの形。
誰からも見放された絶望の闇の中で、ただ一人、彼だけが手を差し伸べてくれた。最初はそれだけで十分だと思っていた。でも今では、想像もしなかったほどの幸せを与えてくれている。
あの月明かりの下で愛を告げてくれた夜。降り注ぐ朝陽の中で交わした誓い。テオバルトの瞳に宿った熱。幾度も重ねられた言葉に込められた想い。それらのすべてが偽りのない真実だったことを、オフィーリアは深く信じている。
ふと視線を落とすと、左手の指輪が柔らかな光を放っていた。わずかな紫を秘めた深い蒼が、まるで彼の言葉に呼応するかのように、静かに輝きを増している。
これは単なる婚約の証ではない。不確かだった未来に、確かな光を灯してくれた希望の象徴。指輪の放つ輝きは、彼の揺るぎない愛情そのもの。
その光に導かれるように、オフィーリアは静かに顔を上げた。家族の視線を真っ直ぐに受け止めるその瞳には、もはや迷いの色はない。
部屋の空気が、一瞬だけ変わった気がした。オフィーリアの微笑みが沈黙の中に新たな温かさをもたらすように。
ジークベルトは腕を組んだまま、翠の瞳でテオバルトを見据えている。その眼差しは冷静そのものだが、奥底には複雑な感情が渦を巻いているようだった。
「……確かに、お前の言葉には筋が通ったように見える」
一度そう言いかけて、ジークベルトは言葉を飲み込む。思案げに視線を落とし、そしてまた鋭く弟を捉える。
「しかし、それはお前の職務の範疇を超えているはずだ」
「その通りです」
テオバルトの答えは、真っ直ぐで揺るぎない。
「つまり、あくまでも個人的な判断による行動だったと?」
「はい。彼女を望んだのは私個人の意思です。そこに政治的な思惑は一切ありません」
「では、その個人的な行動が我が家の名に傷を付けかねないことは考えなかったのか?」
当主としての重み、そして弟の選択への深い疑念が、その問いに込められているようだった。翠眼に宿る厳しさに、オフィーリアは思わず息を呑む。
「自分の行動が軽率だと思われる可能性は考えました」
けれどテオバルトは一瞬の躊躇いも見せなかった。
「彼女は常に与えられた環境の中で強く生きてきた女性です。今も、その才覚を持って新しい道を切り拓こうとしています。彼女の存在はこの家に新たな価値と輝きをもたらすものだと、私は確信しています」
その声には迷いの一切ない強い決意と、穏やかでありながら揺るぎない力が込められていた。
「私の決断が家名に傷を付けるとも、思っていません。今後それを証明することが私の責務です」
「それが、家族に説明もなく独断で結婚を決める理由になるとでも?」
ジークベルトの言葉が、まるで氷の刃のように切り込んでくる。しかしテオバルトは真っ直ぐにその視線を受け止めている。
「詳細を話すべき機会を逸してしまったことについては謝罪します。しかし、家族全員が揃うこの場で、改めて私の考えと経緯をすべてお話ししたいと思ってのことです」
真意を測りかねるように、ジークベルトの翠眼が細められた。ヘムルートとマティアスもまた二人の応酬を静かに見守っている。
「慎重で知られるお前が、そう言い切れる根拠は何だ? 自分が国政に関わる立場であることを忘れたわけではないだろう」
その問いには、単なる詰問以上の意味が込められていた。まるで、兄として弟の覚悟を確かめようとするかのように。次にテオバルトが何を言うのかオフィーリアにも想像が付かなかった。ただ、その言葉を待つ。
忘れるはずがありません、と、テオバルトはまたも即答した。
「私が外務卿という立場にある以上、個人的な話だとしても、政治的な思惑があると勘繰られる可能性は否定できません。そのため、行動には十分な配慮をしたつもりです。彼女の下賜を願い出るにあたり、大公閣下の承諾を得たのもその一環です」
口を挟まず聞いていたオフィーリアだが、大公の名前が出てきた時は流石に驚いてテオバルトの横顔を見つめた。まさかそんな人物にまで話が及んでいるとは想像もしていなかったのだ。
「へえ、オフィーリア嬢もそこについては初耳だって顔をしているね」
どこか愉快そうな口調で、マティアスはオフィーリアに視線を向けた。テオバルトと同じ琥珀色の瞳には、暖かな光が揺れている。
「大公閣下はね、テオの旧知でもあるんだよ」
その言葉すら、オフィーリアの耳にはぼんやりとしか届かない。テオバルトが自分のために、これほどまでの準備を整えていたという事実に、胸が熱くなるのを感じていた。
「……そのような配慮をいただいていたことは、私も存じ上げませんでした」
オフィーリアはどこか戸惑いながらも、落ち着いた声で答える。驚きと、感謝と。様々な感情が渦巻き、どう表現したら良いのかわからない。
ややあって、ジークベルトは深く息を吐いた。
「……なるほど。すべて考えなしの行動ではなかったと信じたいところだ」
冷静な声だったが、刺々しさは少し和らいだかもしれない。ジークベルトの視線が外れた瞬間、室内の空気がわずかに緩む。オフィーリアはそれを敏感に感じ取りながら、静かに息を整えた。
「兄上がその点に納得されたなら、次はこちらの番かな」
マティアスの声が、まるで静かな水面に投げ込まれた小石のように、室内に波紋を広げる。彼は優雅に身を乗り出し、琥珀色の瞳でオフィーリアを捉えた。
柔らかな微笑みを湛えているその表情の奥に、鋭い光が隠されているのをオフィーリアは見逃さなかった。
「エストリエの王家に支えていたという事実は、軽いものではないよね。あなたは王子殿下とも親しかったと聞いているけど、その縁は今も続いているのかな」
「……王宮での慣れない日々の中で、殿下のお言葉を心の支えにしていた時期もございました」
その一言を紡ぎ出すだけで、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚が走る。目の前の琥珀色の瞳が、柔らかな光を宿しながらも、決して見逃すことのないようにこちらを見つめていた。
「この国に来てから一度だけ、私の今後の幸せを祈ると、殿下からお手紙をいただきました。それ以外の接触はございません。……仮にあったとして、今の私はもうそれに応じる立場にはないかと存じます」
その視線を正面から受け止めるべきだとわかっていながら、オフィーリアは一瞬だけ目を伏せた。
「そう。では当時のあなたは、政治に直接関わるような立場にあったのかな?」
一瞬、室内の空気が張り詰めた。オフィーリアは視線を落とし、過去の記憶を探るように短く息をついた。
「……いいえ、当時は歌姫として与えられた役割を果たすことに精一杯でした。政に関する話が耳に届くことはありましたが、それがどういった意味を持つかを理解する立場にはありませんでした」
静かに言葉を紡ぐオフィーリアを見つめながら、マティアスは僅かに首を傾けるようにして続ける。
「それでも宮廷という場にいた以上、耳に入ってきたこともあるでしょう。理解する立場にないと思っていたからこそ、かえって重要なことを聞いている可能性だってある。もしその記憶がこの国に役立つとしたら、どうする?」
どこか親しみやすい柔らかな口調なのに、その問いは鋭い刃となってオフィーリアの胸を突き刺す。一瞬、息が詰まったように言葉が出てこない。
耳元で血が鳴るような感覚。視界の端が微かに揺らめいて、意識が過去の闇へと引き込まれそうになる。けれど、それは以前のような無力な恐怖ではなかった。
今の自分には、確かな光を持っている。ただ、その光に照らされて見えてくる過去の記憶が、これまでとは違う重みを持って迫ってくる。
オフィーリアはゆっくりと目を伏せた。記憶の奥底へと意識を沈めていく。王宮での日々が、まるで古い絵巻物のように、次々と心の中に流れていく。
その沈黙の中で、オフィーリアの答えを待つ視線が、重く室内を支配していた。




