第五十四話 翡翠の冷光
馬車の揺れは、思ったよりも穏やかだった。オフィーリアは窓の外を見つめながら、自分の手が膝の上でぎゅっと握られていることに気付いた。いつもの癖が、今日は少し強く出ているのかもしれない。
「大丈夫ですよ、リア」
隣に座るテオバルトの手がそっと伸びて、両手を包み込むように振れる。自分より一回りも大きい手は少し皮膚が固く、骨張っている。昔は剣を、今はペンを。これまで多くの人を守り、これからも導いていくこの手が、オフィーリアには愛おしかった。
「……緊張はしています。ですが同じくらい、ご家族にお会いできることが楽しみでもあります」
震える声を整えながら答えると、テオバルトの口元がわずかに緩む。その優しい表情に、少しだけ胸が落ち着いていく。
訪問が直前に迫る中で倒れてしまったことを、オフィーリアは心から反省していた。あの夜のテオバルトの表情が、言葉が、今でも胸を締め付ける。日程の変更を提案してくれた彼に「このままでいい」と強く頼み込んだ自分の言葉を、渋々ながらも納得してくれた優しさが、今は深い感謝となって広がっていく。
それからのテオバルトは勉強や仕事の話を一切持ち出さず、代わりに家族のことをたくさん話してくれた。厳格な長兄や親しみやすい次兄、穏やかな父の昔話――そのどれもが、伯爵家での生活を垣間見せてくれるようだった。その時間が少しずつ自分に覚悟を芽生えさせたのだと、オフィーリアは思う。
オフィーリアはそっと左手を自分へ引き寄せる。そこは美しい宝石が、まるで心を映すように輝いている。
「似合いますか?」
「とてもよくお似合いです。その指輪に相応しい女性はあなただけだということを、どうか忘れないでください」
テオバルトは自然な動きで、その指先に唇を寄せる。頬に熱が集まるのを感じながら、オフィーリアはほんのわずかに、テオバルトへ身を寄せた。
レーヴェンハースト伯爵家のタウンハウスは、実はシュルテンハイム侯爵邸からそんなに離れていないそうだ。高位貴族の屋敷が立ち並ぶ区画に入って程なく、「着きましたね」というテオバルトの穏やかな声が響き、馬車は大きな門を通り抜ける。扉が開き、差し出された手を取りながら馬車を降りると、風が心地よく頬を撫でた。
だが、目の前に広がる邸宅を見上げた瞬間、オフィーリアは思わず息を呑んだ。
(なんて立派なお屋敷なのかしら……)
荘厳な白壁の佇まいからは、ただならぬ重みが感じられる。テオバルトの侯爵邸も十分に立派なものだが、建てられてからまだ日が浅い。それと比べると、この邸宅からは長い歴史が滲み出ているかのよう。オフィーリアの胸に、畏怖に似た感情が広がる。
屋敷の扉がゆっくりと開かれると、そこには出迎えの使用人達が一列に並んでいた。深々と頭を下げる姿に、この家の格式の高さを改めて実感する。
玄関ホールは二階分の吹き抜けになっていて、天井にはオフィーリアの背丈を優に超えるシャンデリアが、まるで星屑を散りばめたように煌めいている。目線を落とせば床では磨き抜かれた大理石が幾何学模様を描き出し、足を乗せることすら躊躇われるほどの美しさだった。
「ようこそ我が家へ。テオバルト、オフィーリア嬢」
低く落ち着いた声に、オフィーリアは顔を上げた。視線の先に立つ男性の佇まいに、思わず息を詰める。真っ直ぐに伸びた背筋からは、生まれながらの威厳が感じられた。テオバルトよりいくつか年上だろうか、整えられた深い茶褐色の髪は上品な光沢を放っている。
「お久しぶりです、兄上。お忙しい中、お時間をいただき感謝いたします」
そう応じたテオバルトの声は柔らかく、その中に微かな懐かしさと、家族への敬意が滲んでいた。
男性は一つ頷き、次にオフィーリアに目を向ける。その翠眼は冷静さと厳格さを宿し、まるで心の中を見透かすように一瞬だけこちらを捉えた。その鋭い視線に、心臓が大きく跳ねる。
ジークベルト・ハインツ・レーヴェンハースト。伯爵家の現当主である彼は、確かにテオバルトとよく似た整った顔立ちをしている。けれど纏う空気は、弟の穏やかさとは異なる冷徹な緊張感を帯びていた。
胸の奥で、オフィーリアは自分の中で何かが確かに切り替わるのを感じた。ここは単なる挨拶の場ではない。これから自分はテオバルトの婚約者として、この家族の前で、彼の選択が正しかったことを証明しなければならない。その決意が、不思議なほど冷静な強さとなって心に広がっていった。
◇
案内されたのは広々とした応接室。調度や装飾の一つ一つが長い歴史の重みを湛えているかのようだった。天井まで届く窓からは柔らかな陽光が差し込み、部屋の空気までが優雅に煌めいて見える。
部屋の中心に据えられた椅子から、二人の男性がゆっくりと立ち上がった。
「ようこそ。お会いできるのを楽しみにしておりました」
ヘムルート・ルーク・レーヴェンハーストの穏やかな微笑みに、オフィーリアは懐かしさを覚える。茶褐色の髪にはうっすらと灰色が混ざり始めているものの、その均整のとれた痩身と優しそうな翠眼は、記憶の中の人物そのままだった。傍らの椅子に立てかけられた杖が目に入ったものの、その立ち居振る舞いは実に滑らかで、むしろ気品すら感じさせる。
そして、必然的にもう一人が次兄マティアス・ヴェイン・レーヴェンハースト。テオバルトと同じ深い琥珀色の瞳が、温かな光を宿している。
「お会いできて嬉しいです、オフィーリア嬢」
軍人らしい凛とした佇まいの中に、どこか親しみやすさが混ざった声音。テオバルトが語っていた通りの人柄が、そこにはあった。
「父上、兄上。オフィーリアと共にご挨拶させていただく機会を賜り、心より感謝申し上げます」
テオバルトの声には家族への敬愛と、オフィーリアを紹介することへの誇らしさが滲んでいる。
しかし、ヘムルートはその言葉には応じず、穏やかな声でオフィーリアにだけ視線を向けた。
「ようこそ、オフィーリア嬢。あなたを歓迎します」
その言葉は確かに温かいものだったが、どこか探るような眼差しが隠されているように見えた。
壁際には、伯爵家の使用人たちが控えていた。彼らは控えめに姿勢を正しつつも、室内の空気を乱さないように気を配っている。
ベルナやクラウス――侯爵家から随行してきた使用人たちも同じように待機しており、その緊張感が室内の張り詰めた雰囲気をさらに際立たせていた。
「どうぞお掛けください」
静かなその声に、オフィーリアの胸がわずかに震えた。テオバルトが背中にそっと手を添え、椅子を勧める。その仕草に支えられるように、オフィーリアは小さく頷いて席に着いた。
間を置かず目の前に人数分の紅茶が用意されたが、誰一人として手をつける様子はない。紅茶から立ち上る湯気が静かに揺れ、張り詰めた空気だけが部屋を支配している。
テーブルを挟んで向かい合うジークベルト、ヘムルート、マティアス――伯爵家の三人を見渡した時、改めてその威厳に圧倒される思いがした。
視線を感じて顔を上げると、ヘムルートの翠眼が穏やかにこちらを見つめていた。
「オフィーリアです。隣国エストリエからこの国に参りました。私の婚約者として、新たな道を共に歩むことになります」
決意と誇りの滲む声で、テオバルトが改めてそう告げる。それは王宮で与えられたもの。家名すら持たないその呼び名が耳に届いた時、オフィーリアの胸に小さな痛みが走る。それでも、視線を落とすことはしない。
向かいから届く眼差しが、自分の覚悟を試すかのように感じられる中、オフィーリアはそっと口を開く。
「オフィーリアと申します。このような貴重な機会を賜り、心より感謝申し上げます。皆様にお目にかかれますことを光栄に存じます」
自分でも驚くほど声は落ち着いていた。その芯の通った物腰に、ジークベルトの眉がわずかに動いたように見えた。
「どうか気負わずに」
ヘムルートが微笑みながら言葉を継ぐ。
「テオバルトが選んだ人だ。きっと、私たちに話してくださることがたくさんあるはずです」
「はい。まずは、私自身のことをお話しさせてください」
オフィーリアの言葉に、三人の視線が一斉に集まる。テオバルトがわずかに身体を寄せ、その存在が静かな支えとなる。
「私には家族がいません。幼少期から国の養育施設で育ちました。それは変えようのない事実ですが、与えられた環境の中で、精一杯生きていたつもりです」
歌姫が平民階級の人間であることは既に広く知られている事実。けれど孤児であったことは絶対に知られてはいけないと厳しく教えられていた。その出自をこうして語ることは、未だ想像以上に勇気のいることだった。
その告白に、ヘムルートの眉が痛ましそうに寄る。マティアスは何かを考えるように目を伏せ、ジークベルトの表情だけは相変わらず読めない。
「歌を通じて、多くの方に喜びを届ける機会をいただいたこともあります。それは私にとって大変幸せな時間であり、私の根幹を成す一部です。一時的に声に不調をきたしてからは、今後の人生に迷いを抱くこともありましたが、テオバルト様に支えていただいたことで、もう一度前を向くことができたのです」
そこまで語ったところで、オフィーリアはそっと息を吐いた。
ふと、周囲の静けさが耳に届く。家族の視線がすべて自分に注がれているのを改めて感じた瞬間、心臓が胸の奥でぎゅっと収縮する。だが、逃げるように伏せかけた視線を、オフィーリアはぐっと持ち上げた。
テオバルトが隣でじっと見守ってくれている気配が伝わってきた。
「二年ほど前からあなたの名前を急に聞かなくなったけど……それはそういう事情だったんだね?」
静かに言葉を紡いだのは、次兄のマティアスだった。琥珀色の瞳が優しくこちらを見つめている。どこか納得したようなその声色に、オフィーリアは頷いた。
「はい。声の不調により、歌姫としての勤めを辞しました。そのことに未練はございません。その後はしばらく、しばらく王宮での静養を命じられておりました」
「不調、か。それがどれほどの重さを伴うものだったか想像できないけれど……歌があなたの生きる理由だったのだとすれば、きっと言葉以上の重みがあっただろうね。練はないと言い切れるのは、すごいことだね」
テオバルトと同じ琥珀色の瞳が、どこか過去を懐かしむように細められた。
「実は妻が、あなたの歌をとても気に入っていてね。何度も公演に連れていかれた」
マティアスが妻の話をする間、ヘムルートは穏やかに頷き、ジークベルトの表情にもわずかな柔らかさが差し込んだ。家族で共有する思い出が、一瞬だけ場の緊張を溶かしていく。
「もう一度あの歌声を聴きたいってよく話していたけど……今後、歌うつもりはないのかな?」
その言葉には興味半分、探るような響きが混ざっている。その琥珀色の瞳がオフィーリアをじっと見つめる中、彼の表情は穏やかなままだった。
オフィーリアはほんの一瞬、視線を床に落とした。言葉を選ぶための短い間だった。未だ戻らない歌声について、何を想えばいいのか、まだはっきりとした答えが出ていない。部屋の空気が、次の言葉を待つように静まり返る。
「歌は、私にとって人生の一部であり、切り離すことのできないものです」
それだけは唯一、確かに言えることだった。
「ですが今、歌うことができるかと言われれば、それは……まだ分かりません。ただ以前のように舞台に立つことは、もうないと思います」
オフィーリアはゆっくりと顔を上げ、マティアスの瞳を見据えた。その声は静かで、内に秘めた情熱と決意が滲み出ているようだった。
「私の歌は多くの人に喜びを与えられていたと、今でも信じています。これからは、その経験を通じて、この国で自分に何ができるかを考えていきたいと思います」
「――素晴らしい、模範的な回答だ」
皮肉の滲む声はジークベルトのものだった。彼は椅子の背もたれから身を乗り出し、わずかに前傾する。翠眼が冷ややかにオフィーリアを捉えたまま、淡々とした口調で続ける。
「だがその話だけでは、きみがここにいる理由の説明になっていない。なぜエストリエを離れ、テオバルトの元へ来たのか。我々が知りたいのはそこだ」
その声には、感情を押し殺したような響きがあった。自分の心臓の音ばかりが大きく聞こえる中、視界の端でマティアスがわずかに眉をひそめるのが見えた。
「テオバルトからは『隣国の女性を保護する』としか聞かされていない。それ以上の詳細を話すつもりもないようだったな。だが今となっては、我々にも知る権利がある。どういう経緯できみがこの家に迎えられることになったのか――教えてもらいたい」
翠眼の冷たい視線に射すくめられ、オフィーリアは一瞬言葉を失った。膝の上でぎゅっと手を握りしめながら、心の中で答えを探す。
「それは……」
声が続かない。自分の中にある答えでは、この場の全員を納得させることなどできない――その事実が、胸の奥を重く締め付けた。
「話せないのか。それとも、話したくない理由があるのか?」
翠眼が鋭く彼女を射抜き、部屋の空気が一層張り詰める。追及の言葉には、純粋な疑問というよりも、試すような響きがあった。




