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第五十三話 光を映す鏡

 あのシュルテンハイム侯爵テオバルトが妻を迎える用意を進めている——そんな噂を耳にしても、ベルナ・アーデルハイトはまったく信じていなかった。些細な話が大袈裟に誇張されて広まるのは貴族社会では日常茶飯事だ。それが名高い人物の話題であればなおさらである。

 軍人として北方に駐屯していた彼が公都へ戻ってくると、その存在はたちまち有名になった。遠くからでも目を引く高い上背に、輝くような金褐色の髪。琥珀色の瞳は誰に向けられる時も穏やかで、名門伯爵家の三男という肩書も娘婿にするには申し分ない。

 さらに軍部から外務省への転属という異色の経歴も、彼への注目を集める大きな要因となった。その際に少佐への昇進を断ったという噂は彼の選択に対する興味と謎めいた魅力を一層際立たせた。


 それに加えて大公から直接与えられた侯爵位に、外務卿という重要な役職。大公の信任が厚ければこれからも出世する可能性がある。どの派閥にも属さず社交界から距離を取る彼を、婚姻を理由に自分たちの派閥へ引き込みたいと考える貴族は多かった。

 それでもテオバルトは女性に対して深入りせず、常に明確な一線を引いていた。持ち込まれるすべての縁談を断っているらしいというのも社交界では周知の事実で、彼は男性ながらまさしく高嶺の花だったのだ。

 だが「侯爵邸で働かないか」という誘いが兄マルセル経由で届いた時には、ベルナも流石にその噂を信じざるを得なかった。


 兄マルセルもまた北方の国境付近に駐屯する軍人の一人だった。戦場で負った怪我により前線を退くことを余儀なくされたものの、失意に沈むことなく次の道を模索するその背中を見て、ベルナは自分も力強く生きていかなければと思ったものだ。

 マルセルは軍部で新たな職に就いたが、その裏にはテオバルトのささやかな口利きがあったのだと両親が話しているのをこっそり聞いたことがある。それは兄だけでなく、そうした部下たち全員に行われているのだとも。

「彼がいなければ、自分は今ここにいなかった」

 兄はそう語ったことがある。命を救われた恩人として、テオバルトに深い感謝を抱いているのは明らかだった。


 そんな人物が、わざわざ自分に声をかけてきた。ベルナはその時初めて、「妻を迎える」という噂がただの根も葉もない話ではないかもしれないと思った。

 とはいえ、その話を受けるかはまだ別問題だ。貴族の家に生まれたからには一族に利益をもたらす相手と結婚しなければならない——それはベルナにとって当たり前の生き方だった。

 実際に、家同士が決めた婚約者もいた。だから、どんなに好条件であっても侯爵邸で働くつもりはなかったのだ。……手酷い婚約破棄を突きつけられるまでは。

 

 ◇


 はじめて「奥様」と対面した時の衝撃を、今でも覚えている。

 寒空の下でじっとその場に立ち尽くしているオフィーリアは、まるで自分が凍えていることにも気付いていないかのようで。かつての名声からは想像もできないほど傷付き怯えた姿に、困惑と共に胸を締め付けられるような痛みを覚えた。

 最初のうちは、どう接していいのか分からなかった。何を尋ねてもわずかに首を振るばかりで、目線さえ合わず、声をかけなければ何時間でもずっと窓辺の椅子に座って外を眺めている。何を考えているのか、何を感じているのか、まるで見えない。ただ、わずかに動いたその指先から伝わる震えだけが、彼女がどれほど心細く、傷ついているかを物語っている。

 それでも少しずつ、小さな変化があった。花瓶の花に目を留めるようになったこと。「良いお天気ですね」と声をかけたら、わずかにうなずいてくれたこと。悪夢を見たときに自分を頼ってくれたこと。雨に濡れた身体を拭き終えたら小さな声でお礼を言ってくれたこと。その一つ一つがベルナの胸を温めた。

 

 結婚はあくまでもオフィーリアを自分の庇護下に置くための口実である——テオバルトの説明を、当初は額面通りに受け取っていた。確かに未婚の女性をこの屋敷に留め置くための手段としては筋が通っているし、彼にはそれを実行するだけの立場も権力もあった。

 けれど屋敷の生活を続けるうちに違和感は増える。オフィーリアに新しい変化があったことを報告するたび、その瞳の奥に宿る静かな喜びをベルナは確かに見た。

 これまで、侯爵邸に女性の使用人は一人もいなかった。オフィーリアの迎え入れに際して雇われた侍女は自分含めて数人いたが、その全員が、テオバルトとの縁談が持ち上ったことのない下級貴族の娘だと気付いた時、それが偶然であるとは到底思えなかった。

 時に過剰とも思える気遣いや配慮。彼自身もまた、オフィーリアとの距離感を掴みかねているように見えた。

 

 穏やかな生活の中で、オフィーリアも少しずつテオバルトへの警戒心を解いていくようだった。届けられるカードを受け取るたび微かに浮かぶ微笑みに、返事をしたためるたびペンを片手に眉を寄せて悩む様子に、どこか特別な感情が含まれていると思わずにいられない。

 特に、声を取り戻してからのオフィーリアの変わりようには目を見張るものがあった。それまでどこか怯えがちだった彼女は徐々に穏やかな笑顔を見せるようになった。言葉の端々に柔らかな強さが宿り、その瞳には新たな光が差し込んでいた。

 そして、テオバルトもまた、その変化を誰よりもよく理解しているように見えた。オフィーリアの話に耳を傾ける彼の姿は以前より柔らかで、時折見せる微笑みには、どこか誇らしげなものすら感じられた。彼がどれほど彼女の幸せを望んでいるのか——それは、ベルナにとって疑う余地のない事実だった。

 二人の間に漂う空気は日に日に変化していく。テオバルトが表向きに何を語ろうと、その態度や眼差しは、単なる庇護者のものとは違う。オフィーリアに向ける穏やかな視線は、時折、無防備なまでに優しさを滲ませている。

 

 だからこそ、オフィーリアが初めて涙を見せたあの夜、ベルナはテオバルトと共に部屋に入るか迷った。この結婚が建前であるなら尚更、夜にテオバルトが一人で部屋に立ち入ることは許されない。けれそうしなかったのは、彼がオフィーリアを心から気遣い、大切にしていることを日々の行動から感じ取っていたからだ。すべて任せても大丈夫だと、そう信じることができた。

 しばらくして扉が静かに開き、テオバルトが部屋から姿を現した。ベルナは思わずその表情を窺ったが、彼はいつも通りの落ち着いた様子だった。ただ、ほんの少しだけ肩の力が抜けたような気配がある。

「今は落ち着いて眠っている。心配はない」

 低く抑えた声でそう告げた瞳には、どこか穏やかな光が宿っていた。それは何かを守り抜いた者だけが持つ確信のようなものだった。


 翌朝。テオバルトと共に庭から戻ってきたオフィーリアの表情を見たとき——ようやく想いが通じ合ったのだと、言われずともわかった。

「テオバルト様が、私を、あ、愛していると……言ってくださって、私もそうですと、お伝えしたの」

 外出の身支度を整えながら、オフィーリアが恥じらいがちに告げた言葉。幸福に包まれた瞳を伏せるのは、もうあの頃のように怯えているからではない。純粋な照れと、溢れる喜びをどう扱っていいかわからない気持ちの現れだった。

「おめでとうございます」

 その一言に込められた気持ちをオフィーリアは理解したのだろう、小さく微笑んで「ありがとう」と囁いた。その声の柔らかさに、ベルナは知らず微笑み返していた。


 そして今日、オフィーリアは婚約者としての新たな一歩を踏み出そうとしている。

 レーヴェンハースト伯爵家への正式訪問——その準備に追われる日々の中で、彼女はついに自らを追い詰めすぎてしまった。書類の確認に没頭する姿、夜更けまで勉強を重ねる様子を見ながら、もっと強く休息を促すべきだった。その時の自分の優柔不断さを、ベルナは今でも悔やんでいる。

 結局、オフィーリアは過度の疲労で倒れてしまった。その報告を受けたテオバルトの表情は、ベルナの胸を強く打った。深い愛情と共に、自分もまた彼女の不調に気付けなかったことを責めるような色が浮かんでいた。

 この経験は、ベルナに新たな決意をもたらした。今後はもっと強く、時には厳しくとも、オフィーリアの健康を第一に考えていこう。テオバルトと共に、彼女を支える存在であるために。


 それでもまだ、乗り越えなければならないことはたくさんあるのだろう。しがらみの多い貴族社会の中で、オフィーリアがどのように受け入れられていくのか——それはベルナにも想像がつかなかった。

 けれど、テオバルトから贈られた指輪がその指に輝いている限り、オフィーリアはきっと迷わないだろう。その瞳に宿る光は、かつての彼女にはなかったものだ。それは、大切に育まれた信頼と愛情の証だった


「ねぇ、ベルナ。どこかおかしいところはない?」

 鏡越しに振り返るオフィーリアの姿に、ベルナは一瞬言葉を失う。かつて冷たい城で見た孤独な少女の面影は、そこにはなかった。

「大丈夫です。とてもお綺麗ですよ」

 そう微笑みながら答えると、オフィーリアも笑み返す。その柔らかな表情は、どこか春の日差しのような穏やかさを感じさせた。

 これからどんな道を選ぶにしても、その手を取る人がそばにいる限り、オフィーリアはきっと前を向いて進んでいくだろう——そう確信できる姿だった。

 

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