第五十二話 星影に眠る
静寂に包まれた夜、オフィーリアはまるで深い霧の中から這い上がるように意識を取り戻した。体の芯まで染み込んだ疲れと共に、何か大切なことを失ってしまったような不安が胸を締め付ける。
薄暗い寝室の中、微かなランプの光が柔らかな影を落としている。視線をゆっくり動かすと、寝台のそばの椅子に腰掛けたベルナの心配に歪んだ表情が目に入った。
「奥様、お加減はいかがですか?」
柔らかな声に応えようと小さく頷こうとしたが、その仕草さえ思うようにならない。喉から漏れた声は、か細く掠れていた。
「ここは……」
「奥様の寝室です。お昼に倒れられてからずっとお休みでした」
濡らした布でそっと額を拭われると、その冷たい感覚が心地良く、一瞬だけ目を閉じる。混沌とした記憶の中から、最後の場面が少しずつ蘇ってくる。書類を読み進めていた時の突然の眩暈。まるで霧が立ち込めるように白く染まっていく視界。そして、そこから先は何も――
ベルナの手を借りて上半身を起こそうとすると、また目眩が襲ってきた。差し出される水入りの杯がやけに重く感じられて、落とさないよう慎重に両手で持つ。飲み干せば、乾いた喉と空っぽの胃がわずかに潤う。
「旦那様も大変心配されておりました。お呼びしても、よろしいですか?」
ぼんやりした頭のまま頷くと、ベルナがそっと立ち去る。夜も深い時間帯であるにもかかわらず、テオバルトはすぐに姿を見せた。
扉が開く微かな音と共に、見慣れた背の高い影が部屋の奥から近づいてくる。その端正な顔には、いつもの穏やかさの下に、張り詰めた空気が漂っていた。その姿を見た瞬間、これまで堪えていた後悔の感情が、一気に込み上げてきた。
オフィーリアは思わず目を伏せた。申し訳なさと恥ずかしさで、まともに顔を上げることもできない。
その足跡が寝台のすぐそばで止まるのを感じて、オフィーリアはようやく口を開く。
「……無理をし過ぎました。忠告を聞き入れなかったのも、自己管理ができなかったのも、すべて私自身の落ち度です」
消え入りそうな声で絞り出した言葉に、テオバルトはしばし黙って彼女を見つめていた。薄明かりの中で浮かび上がるその顔には、心配と苛立ち、そして深い愛情が混ざり合っていた。それは、オフィーリアがまだ見たことのない表情だった。
「まず言うことが、それですか」
彼の声は静かでありながら、僅かな怒りを孕んでいた。その一言に、オフィーリアの肩が小さく震える。これまでテオバルトがこんな風に自分を叱ったことはあの夜でさえもなかった。その事実が、彼の心配の深さを物語っているようで、胸が締め付けられる。
「あなたの責任感の高さは素晴らしい。しかしそれで体調を崩しては意味がない。その努力が意味を持つのは、あなたが元気であるからこそだということを忘れないでほしい」
「……はい」
「しかしそれは、あなたにそこまで無理をさせていることに気付けなかった、私の失態でもあります」
まるで自分を責めるかのような苦々しい響きが込められた声。テオバルトはそばに置かれていた椅子に腰を下ろす。重苦しい沈黙が、夜の静けさの中に落ちていく。
オフィーリアはぎゅっと掛布を握り込んだ。迷惑をかけるつもりなど、決してなかった。もう少し上手く、もう少しだけ頑張れば、と思っていた。
けれど結局、すべてが空回りだったのかもしれない。倒れてしまった今となってはどんな言い訳も許されない気がした。
「私も苦言を呈される側の人間ですから、あなたの気持ちは理解できるつもりです。だからこそ、あなたには同じ轍を踏んでほしくないのです」
先程の厳しさは影を潜め、いつもの温かみを取り戻したその言葉が、オフィーリアの胸を強く打つ。ずっと働き詰めは大変ではないかと、かつて自分が彼に問うたことを思い出す。あの時に感じた切なさを今度は自分が与えてしまった。その自覚が、さらなる後悔の波となって押し寄せてくる。
「自分の役割を果たそうとするその気持ちは立派なものです。それ自体を否定する必要はありません。ただ自分の限界を見極めることも大切です。わかりますね?」
テオバルトの静かな声が、胸の奥を優しく、けれど確実に貫いていく。その言葉はどれも正しくて、何一つ反論できるものではなかった。
自分の価値を問う声が、まだ心のどこかに潜んでいる。それに打ち勝つために、無理をしてでも結果を出したかった。でも、成し遂げるどころか迷惑と心配をかけるだけで終わってしまった。
返事をしようとして喉が震えた。言葉にならない感情が胸を押し上げる。自分の不甲斐なさが悔しくて、彼の優しさに触れるたびに、それを受け取ることが申し訳なくて――その感情が涙となって瞳から零れ落ちた。慌てて手で拭っても、すぐにまた新しい涙が頬を伝う。
テオバルトは、そんなオフィーリアの様子をじっと見つめていた。何かを言いたそうに、けれどすぐには言葉を選べずにいるようだった。やがて静かに手を伸ばし、オフィーリアの手をそっと押さえる。
「……今は、泣いていいですよ」
その声は、まるで時間をかけて選び抜かれたかのような温かさを帯びていた。その言葉に、抑え込んでいた感情が胸の奥で静かにほどけていく。涙はひとつ、またひとつと頬を伝い、溢れて止まらなかった。けれど、それはどこか穏やかな涙だった。頬を伝う涙を、テオバルトが静かにハンカチで拭う。その手の温もりがどこか懐かしい安心感を運んでくる。
「ご迷惑を、おかけして、申し訳ありません……」
「もういいのです。ただ、約束してください。これからは無理のない範囲で、ゆっくりと進めていくと」
オフィーリアはこくりと頷く。涙で滲んだ視界の中、彼の優しい表情が揺らめいて見えた。心が少しずつ安らぐのを感じながら、深くゆっくりと息を吐く。
オフィーリアが落ち着いてきた頃合いを見計らったように、テオバルトは椅子から立った。
「少し待っていてください」
テオバルトはそう言って立ち上がると、寝室の奥へと消えていく。その先には鍵のかかった扉があるはずだったが、どうして彼はその扉からこの寝室へ入ってきたのだろう。オフィーリアは不思議に思いながらも、今はその理由を問うことができない。
ただ、彼の背中に秘められた何かが、小さな期待となって胸の中で揺らめいていた。
程なくして戻ってきたテオバルトは、オフィーリアの寝台の前で静かに片膝をつく。その仕草に、オフィーリアは思わず息を呑んだ。いつもとは違う、厳かな空気が二人を包み込む。
「本来なら、もう少し特別な場面でと思っていたのですが」
そう言って取り出したのは、天鵞絨張りの小さな箱。テオバルトの指が、そっと蓋を開ける。
それは指輪だった。白金の輪に据えられた大粒の蒼玉は、まるで夜空の星のような深い輝きを放っている。それを取り巻く小さな金剛石の煌めきは夜明けの光のよう。宝石の青みがかった色は、どこか自分の瞳に似ていた。
「あなたが何かを不安に思うとき、自分を疑いそうになるとき、この指輪が語るはずです。私にとってあなたがこの世で最も大切な人だということを」
テオバルトは柔らかな動作で指輪を箱から取り出し、オフィーリアの左手を取った。銀の輪が薬指に滑り込む。ぴったりと馴染むその感触に、オフィーリアは息を呑む。青い宝石が僅かな光を集めて、美しく煌めいていた。
「こんなに素敵なものを……本当にいいのでしょうか」
掠れた声はどこか戸惑いを滲ませていた。美しすぎる指輪を前に、自分がこれを受け取る資格があるのかという不安が、ふと胸を掠めたのだ。けれど、指に触れる指輪のひんやりとした感触と、手の上からそっと包み込むテオバルトの手の温もりが、その迷いを静かに溶かしていく。
「あなたの瞳の美しさには到底及びませんが、これは、あなたが私にとって唯一無二の存在であることの証です」
その言葉が心に深く響き、胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じた。涙の代わりに湧き上がってきたのは、満たされるような穏やかな幸福感。こんなにも愛され、大切に思われている――それを知るだけで、胸の奥に絡みついていた不安がそっとほどけていくようだった。
その仕草を見つめていたテオバルトの表情が、優しい心配に満ちていく。
「もう休んだほうがいいでしょう。明日も、どうかゆっくり過ごしてください」
その言葉に頷きながらも、オフィーリアは左手の指輪を見つめた。瞬きをするたびに、蒼玉が僅かな光を揺らめかせる。こんな大切な品を、付けたまま眠るわけにはいかない。
「お願いがあります」
迷いがちに言葉を紡ぎながら、オフィーリアは寝台脇の棚を指で示した。
「あの棚の、オルゴールを取っていただけませんか?」
小さな木製のオルゴール。テオバルトが以前贈ってくれた大切な品。
テオバルトの手からその重みを受け取り、オフィーリアはそっと蓋を開けた。
中は機械部分の隣に作られた小物入れには、一枚の金貨が静かな光を放っている。
「……それは?」
テオバルトの声が、わずかに震えた。オフィーリアは優しく微笑む。そっと金貨を手に取ると、その冷たい感触が懐かしい記憶を呼び覚ます。古いデザインの表面は、十年の時を経た今でも僅かに光を放っていた。
「これは私の、歌姫としてのはじまりです」
掌の上で金貨を優しく包み込みながら、オフィーリアは遠い日の思い出を辿る。歌声が、初めて価値あるものとして認められた瞬間。幼い自分にとって、それは小さな誇りとなった。人生で初めて、自分にも何かができるのだと感じた証。
「……とても大切なものです」
あの王宮から持ち出せた唯一の物。声を失い、すべてを奪われた時も、この一枚の金貨だけが昔の自分を繋ぎとめていた。先の見えない暗闇の中で、かすかな光となって。
けれど今、オフィーリアの心を照らすのは、もう別の光。指輪の蒼玉が放つ優しい輝きが、そっとそれを物語っていた。過去の光と、未来への光。
両方を大切に胸に抱きながら、これからも前を向いて歩いていける。そう信じられる強さが、今の自分にはあった。
指輪を守るための繊細な溝に、抜き取った指輪をそっと収める。これからはこの輝きと共に一日をはじめるのだと思うと、胸が静かに高鳴る。
オルゴールは棚に戻さず、枕元のテーブルに置いておくことにした。テオバルトの手を借りて水をもう一杯飲むと、まだ少し重怠い身体を寝台に横たえる。
就寝の挨拶を残して、テオバルトは寝室を去ろうとする。どうしてもそれが名残惜しくて、引き止めるように、オフィーリアは声をかける。
「テオバルト様。あの日、街歩きの帰りに、私が眠ってしまった時……子守唄を歌ってくださいましたね」
その言葉に、テオバルトの動きが一瞬止まる。まるで心の内を覗かれたかのように、彼の瞳が驚きに見開かれた。誰にも気付かれていないと思っていた秘密を、突然明かされたような表情。
「……覚えていたのですね」
いつもの落ち着いた声色が、僅かに上ずっている。オフィーリアは小さく頷いた。
「はい。オルゴールの歌を、とても優しい声で」
テオバルトは言葉につまったように、珍しく視線を逸らす。普段の貫禄は何処へやら、まるで秘密を暴かれた子供のような仕草に、オフィーリアの胸が温かく弾んだ。彼のこんな表情を見られるのは、きっと自分だけなのだろう。その特別感が、密やかな幸せとなって広がっていく。
「もう一度、聴かせていただけませんか?」
「今、ここで、ですか?」
困ったように目を瞬かせるテオバルトの表情に、オフィーリアは微笑みを隠せない。
「あなたの前で歌うのは……とても緊張することなんですよ」
テオバルトが小さな告白をこぼす。外務卿として大勢の前で堂々と話すこともあるだろう彼が、こんな風に照れを見せるなんて――その意外な姿に、オフィーリアは胸がくすぐられるような心地を覚えた。それは新鮮で、どこか愛おしいとさえ感じられる。
「誰かが私のために歌ってくれたのは、あの時が初めてでした」
そっと打ち明けるように紡いだ言葉に、テオバルトの表情が柔らかく溶けていく。少しの沈黙の後、彼は観念したように軽く息を吐いた。
「負けました。あなたにそう言われては、断る術がありませんね」
そう言って、テオバルトは静かに歌い始めた。前置きとは裏腹に、その声は思った以上に穏やかで優しかった。声楽の技術や技巧に裏打ちされたものではない。ただ、一つ一つの音に誠実さと温かさが込められていて、その歌声は言葉にならない優しさを耳に、そして心に染み渡らせていく。
やがて静かに歌声が止み、テオバルトが囁くように言った。
「……ゆっくり眠れそうですか?」
「はい……あの日も、今も、とても心が温かくなります」
その告白に、テオバルトの瞳が深い愛情を湛える。
オフィーリアの瞼が少しずつ重くなっていく。金貨の懐かしい輝きと、指輪の蒼い光が、新しい幸せの証のように今も胸の中に灯っている。温かな安らぎに包まれながら、オフィーリアは穏やかな眠りへと身を委ねていった。
「やすみなさい、リア。あなたの眠りに、私の誓いが寄り添いますように」
その声は、オフィーリアの意識が闇に溶けていく寸前に届いた。金貨が映す思い出と、指輪に込められた誓いが、まるで小さな星のように瞼の裏で煌めいている。今夜見る夢は、きっといつもより少し特別なものになる。




