表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/116

第五十一話 良い夢を。

 夕食を終えた後のひととき、テオバルトと二人で過ごすこの時間は、オフィーリアの心を静かな幸福で満たしていく。たとえ部屋の片隅に使用人の気配があっても、長椅子に並んで座る時にほんのわずかな距離を置かなければならなくても、この穏やかな空気を共有できることが何より愛おしい。そんな思いを抱きながら、自分が少しずつこの生活に馴染んでいることを感じていた。

 今日も、屋敷での仕事について相談を持ちかけた。新しく覚えた書類整理の方法や、使用人たちとの連携をどう円滑に進めるべきか。彼の助言はいつも的確で、すぐに実践できるものばかりだ。その言葉に頷きながらオフィーリアはメモを取る。ランプの灯りが紙面に柔らかな光を落とし、ペンの音だけが静かに響く。


 事務的な相談を終えると、自然と二人のあいだに小さな間が生まれる。ベルナが音もなく歩み出て、温かな紅茶を注ぎ直してくれた。その香りが、今度は違う種類の会話を促すように漂う。

「ドレス選び、とても素敵な時間でした。どの一着も美しくて……」

 自然と言葉が零れ出る。テオバルトは目を細め、温かな笑みを浮かべる。その優しい表情に肩の力が抜けていくような気がする。

「もう少し多めに用意しても良いくらいでしたよ。もし追加で注文するならクラウスに伝えておいてください」

 テオバルトの言葉に、オフィーリアは思わず首を横に振った。

「いいえ、あれだけあれば十分です。本当に……」


 次々と広げられる色とりどりのドレスの波、試着のたびに上がる侍女たちの歓声。支払いはいつの間にかクラウスが済ませていたが、あの一着のドレスの値段は、自分の想像をはるかに超えているものだった。そしてそれが侯爵家では当たり前の規模なのだ。

「……まだ少し、慣れないものがありまして」

 思わず零れた言葉は、自分の戸惑いそのものだった。それをテオバルトがどう感じたのか、表情を少しだけ緩めて、わずかに身を寄せた。その仕草は控えめでありながら、確かな安心感を運んでくる。


「本来ならもっと時間をかけてゆっくり進めるべきところを、急がせてしまって申し訳なく思います」

 その声音には確かな申し訳なさが込められている。実際これが遅いのか早いのかオフィーリアには判断できないものの、仮に急いでいるのだとしら、そこには何かしらの事情があるのだろうと直感する。

「……急ぐことには、何か理由がおありなのですね」

「はい。早くあなたを私の正式な婚約者にしたい。それが整えば、それが整えば、あなたをよりしっかりと守れる立場になれます」

 淡々とした口調の中に秘められた強い意志。まるで既に明確な道筋を描いているかのような確かさ。その言葉の裏に潜む深い愛情に、オフィーリアは胸が熱くなる。詳しい説明がなくとも、それが全て自分を思っての行動なのだと、心の奥まで染み渡るように伝わってきた。


 ふとテオバルトはわずかに表情を曇らせ、オフィーリアの顔をじっと見つめた。

「最近、あまりお休みになっていないと聞きました。夜遅くまで書類を確認されているそうですね」

 その言葉に、オフィーリアは思わず視線を逸らした。やはり使用人からの報告があったのだろうか。自分では気にならない程度のつもりだったが、周囲の目には映っていたということか。

「いいえ、そんなに無理はしておりません。まだまだ覚えなければならないことが多くて……」

 言葉を濁すオフィーリアに、テオバルトは静かに息を吐いた。その仕草に、どこか諦めたような、しかし優しい温もりが感じられる。


 一瞬の沈黙が落ちた。それを打ち消すように、オフィーリアは口を開く。

「――もし、またドレスを新しくする機会がありましたら、その時はテオバルト様とご一緒したいです」

 テオバルトの瞳に一瞬の驚きが宿り、それは優しい光に変わった。

「もちろんです。次はゆっくりと時間を取って、あなたの選ぶ姿を見守らせてください」

 その一言に込められた温もりが、オフィーリアの胸を優しく満たしていく。テオバルトが自分との時間を大切に思ってくれていることが伝わる。抑えきれない喜びを隠せないまま、オフィーリアはそっと笑み返す。


「ありがとうございます。それから……最近は忙しくて手付かずでしたが、またお時間のある時に勉強を見ていただけませんか?」

「あれこれと詰め込むのは良くないと思って控えていましたが、あなたが望むならいつでもお教えします。お一人でも進めていましたね」

 その言葉には、さりげない心配が滲んでいる。

「はい。北方交易路の完成前後における輸出品目の変遷について調べていたのですが、まだ理解が及ばなくて」

「なるほど。確かに交易路の完成は輸出品の需要に大きな変化をもたらしました。その点については――」


 その時、扉が控えめにノックされ、クラウスが「失礼いたします」と書斎に入ってきた。その背後に続いた青年の姿に、オフィーリアは目を丸くする。メゾン・ヴァイスリリーで見かけた彼に間違いない。あの時に感じた凛とした佇まいは、今もなお変わらなかった。

「セシル・カーティス子爵でございます。旦那様の補佐として外務省から特別に派遣され、これから屋敷と外務省との連携を円滑に進める役割を担っていただきます」

 クラウスが簡潔に説明を終えるとセシルは一歩前に出て、丁寧に一礼した。


「セシル・カーティスと申します。この度、特別勤務を拝命し、こちらでお力添えさせていただくこととなりました。未熟な部分もございますが誠心誠意務めさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」

 その物腰は柔らかく、しかし芯の通った印象を漂わせていた。丁寧な口調からは若さの中にも確かな誠実さが感じられる。オフィーリアは控えめに微笑みを湛えながら椅子から立ち上がり、スカートの裾を優雅に持ち上げて応礼を示した。

「初めまして、オフィーリアと申します。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。セシル様のお力添えをいただけること、とても心強く思います」

 その動きには自然な気品が宿り、セシルの薄茶の瞳に一瞬の驚きが浮かぶ。テオバルトが一連のやり取りを静かに見守りながら、セシルに穏やかに頷きかけた。


「セシル、今後は君の働きに期待している。よろしく頼む」

 テオバルトの声には、いつもの温かさの中に外務卿としての威厳が混ざっていた。オフィーリアは思わずその横顔に見入る。夜の書斎に灯る柔らかな灯りの中、普段見せる優しい表情とはまた違う、凛々しい威厳に胸が高鳴った。

 セシルが深々と一礼して退室したのを最後に、夜の静けさが再び部屋を包む。テオバルトは先程の話題に戻ろうとしたものの、時計の針が示す時刻がこれ以上を許さなかった。オフィーリアは名残惜しい気持ちを抱えながらも、そっと立ち上がる。この時間が終わることへの寂しさと、明日も同じように過ごせることへの期待が、胸の中で小さく交差する。


「それでは、おやすみなさいませ」

 そう告げて立ち上がろうとした瞬間、テオバルトがそっとオフィーリアの手を取った。彼の動きは柔らかく、自然で、どこか儀礼を重んじた品があった。

「明日もまた、あなたの笑顔が見られることを願っています。どうか、ゆっくりとお休みください」

 テオバルトがそっとオフィーリアの手を取り、儀礼的に唇を寄せた。その動作は驚くほど自然で無駄のない優雅なもの。その感触はほんの一瞬だったが、驚くほど温かく、オフィーリアの胸を静かに高鳴らせた。

「良い夢を」

 その言葉が、夜の書斎に柔らかく溶けていく。


 ◇


 セシルの存在はオフィーリアの心に新たな重みを加えた。客人が快適に過ごせる環境を整えること――それは女主人としての大切な務めのひとつ。部屋の清掃や寝具の準備、食事や湯浴みの手配。テオバルトに心配されたことが気がかりで、使用人たちが手際よく整えてくれる様子を見ながらもオフィーリアの目は細部に迷い込んでしまう。

 これで本当に良いのだろうか。もっと確認すべきではないのだろうか。特にセシルのように特別な立場の客人には失礼のないように気を配らなければならない。そう考えると、尚更だ。

 もっとも、彼は毎日この屋敷に泊まっているわけではないらしい。近くにある自邸で家族と共に暮らしており、必要な時だけ屋敷を訪れる形を取っているのだと、ベルナが教えてくれた。どうやら、テオバルトの配慮でその柔軟な働き方が許されているとのこと。

 部下の生活を大切にする彼の優しさにオフィーリアは胸を温かくしながらも、自分の役割をしっかりと胸に刻む。そんな彼の気遣いに応えられるよう、自分にできることは全てしなければ。


 昨夜も就寝時間を過ぎてから、今朝の準備が万全か気になって何度も確認に出てしまった。ベルナに「もうお休みください」と諭され、部屋の灯りを消されたあとも心は落ち着かない。こっそり枕元のランプを灯して書類に目を通す。気持ちだけが先走っている自覚はあった。それでも、まだ足りない。

 忙しさのあまり勉強が疎かになっていることも、焦りのひとつ。テオバルトに教わった部分の復習まで手が回らない。シュルテンハイム量のことも、早く理解したかった。テオバルトが爵位と共に大公閣下から賜った大切な土地。彼の地に関する資料が欲しいと頼んだら、クラウスはすぐに揃えてくれたものの「まだ先でもよろしいかと」と言われてしまった。

 けれど、そんな言葉に甘えているわけにはいかない。伯爵家への正式訪問も刻一刻と近付いている。届けられたドレスや小物の確認、礼儀作法の見直し。夜更けまで机に向かう日々が続いているせいか、最近は朝の目覚めが少し重くなっている気がした。それでも、やるべきことは山のようにある。

 

 穏やかな日差しが差し込むサロンで、オフィーリアは手元の書類に目を落とす。そこには新たな侍女候補の一覧が並んでいる。今でもベルナを筆頭に数人の侍女が身の回りと整えてくれているというのに、これからはもっと人手が必要になるのだという。その規模感が未だに掴めないまま、オフィーリアは疲れた目を擦りながら、名前や経歴を一つ一つ眺めていく。

 目に留まったのは、候補者たちの肩書きだった。男爵家や子爵家といった家名が並ぶ。皆、れっきとした貴族の血筋を持つ女性ばかり。そんなものなのかと尋ねたら、ベルナは穏やかな微笑みを浮かべた。

「お立場もあって、旦那様は使用人の採用にとても慎重なお方です。特に奥様の侍女となれば尚更です。候補者として名前が載る時点で身辺調査もお済みのはずです」

「身辺調査? テオバルト様はそんなこともされているの?」

 思わず声が上ずる。聞けば、屋敷の使用人はすべてそうして確かな身元が保証されているか、他の貴族からの推薦を経て屋敷に勤めているのだという。

「……ではベルナ、あなたもそうだったの?」

「はい。私は子爵家の生まれですが、兄が旦那様と親しくさせていただいており、その縁でお声をかけていただきました」 

 その言葉が、思いがけず胸の奥を掠める。もしかしたら自分の出自も、はじめから知っていたのかもしれない。新しい立場や生活に慣れていく中で、変えることのできない過去が時折こうして不意に胸を刺してくる。それもまた、自分の一部として受け入れていかなければならなかった。だからこそ、今は目の前のことに集中しなければ。

 

 書類に目を落としながら、オフィーリアはそっと額に手を当てた。こめかみの奥が重く鈍い。瞼の裏が熱を持っているような感覚に、一瞬だけ目を閉じる。テオバルトの心配した通りだったのかもしれない。けれど休んでいる暇はない。まだ確認しなければならないことが残っている。侍女の人選は慎重に進めなければ。深く息を吐いて、再び文面に目を向けた。

「奥様、もうお昼のお時間です。少し休まれては……」

 ベルナの心配そうな声が、どこか遠くで響く。不思議な感覚だった。確かにもう日が高くなっているはずなのに、窓から差し込む光が妙に眩しい。視界の端がぼんやりと滲んで、まるで白い霧がかかっているよう。


(そうだわ、今日はまだ朝食も――)

 その考えが頭をよぎった時、突然の眩暈が襲ってきた。立ち上がろうとした瞬間、世界が大きく揺れる。視界が急速に暗転していく。最後に聞こえたのは、ベルナの悲鳴のような声。

 意識が闇に沈みゆく中で、オフィーリアは確かに自分の限界を悟っていた。もう少し、頑張れるはずだと信じていたのに――

 指先から書類が滑り落ちる。けれどその音さえも、もう聞こえなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=on
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ