第五十話 かつての遠い星
百合の紋様が彫られた扉をベルナが押し開けた瞬間、オフィーリアの足が思わず止まる。ほのかに漂う花の香り、柔らかな光を反射する繊細な装飾、どこか静謐な空気。まるで異世界に迷い込んだかのような錯覚さえ覚えた。優美に並ぶドレスの数々は、どれもが芸術品のような輝きを放っている。
「メゾン・ヴァイスリリー」——その名を口にするベルナの声には珍しく高揚が混じっていた。国内でも指折りの仕立て屋。格式と伝統を大切にしながらも、流行の最先端を捉えるセンスが素晴らしいと。けれどそんな評判以上に、実際に目にする光景は圧倒的だった。
「ようこそお越しくださいました」
軽やかな声が店内に響き、現れたのは洗練された雰囲気を纏った妙齢の女性だった。艶のある金髪を緩くまとめ、落ち着いた青磁色のドレスを身に纏う彼女——ヘレーネ・ローゼは、この店の品格をそのまま体現しているように見えた。
微笑みを浮かべたその表情は柔らかくも自信に満ちている。その瞳は観察するような鋭さを秘めながらも、それを感じさせない柔らかな物腰が、彼女の魅力を引き立てていた。
案内された奥の部屋で気付いたのは、他の客の姿が一切ないことだった。
「テオバルト様が貸切になさったのです。奥様が気兼ねなくお過ごしになれるようにと」
ベルナの小さな耳打ちに、オフィーリアは思わず息を呑んだ。名高い店を貸し切るという発想も、それを実現してしまう彼の行動力も、まだ慣れない。けれど、それが全て自分を想ってのことだと思うと、胸の奥が温かく震える。
先日の街歩きとは違い、今日はテオバルトの姿はない。その代わり、ベルナのほか二名の侍女とクラウス、さらに護衛まで同行している。公都は比較的安全な街だと聞いていたが、それでも彼は万が一のことを考えたのだろう。
「ご要望については侯爵閣下から事前に伺っております。奥様の大切なご訪問に相応しい装いを、心を込めて提案させていただきます」
ヘレーネの言葉に、オフィーリアは思わず背筋を伸ばす。今日ここへ来たのは、ただドレスを新調するだけではない。婚約者として伯爵家へ正式訪問する日取りが決まり、そのための装いを整えるため。テオバルトが予め用意してくれたドレスはこれからの季節にはそぐわない。
まだ正式な手続きが済んでないとはいえ、もうテオバルトの婚約者として見られているのだと思うと、膝の上で組む指先にきゅっと力がこもる。けれどその不安と緊張は、次々と運び込まれてくるドレスを前にすると少しずつ消えていった。
まるで物語の一頁のように、それぞれのドレスが異なる世界を映し出している。柔らかな朝露を思わせる優しい灰色、木漏れ日の下で輝く水辺のように淡く青みがかった灰色、そして夕暮れの陽光が差し込んだような温かな橙。一つ一つの色彩が、オフィーリアの心に深く染み込んでいく。
そっと手を伸ばし。生地に触れる。その滑らかで繊細な感触が指先を包み込むたびに、小さな喜びが胸の奥で跳ねた。
「本当に……綺麗ですね」
思わず零れた言葉に、自分でも気付かないほどの高揚が混じっている。
「こちらはいかがでしょう?」
ヘレーネが差し出したドレスの、花模様の精緻な刺繍に思わず目を奪われる。まるで生きているかのような花々が、生地の上で静かに咲き誇っていた。
「この刺繍、まるで本物の花のようです。ですが私、こうしたものにはあまり詳しくないので、もし良ければご意見を伺いたいです」
その言葉を境に、部屋の雰囲気がぱっと華やいだ。侍女たちの目が一斉に輝きを帯び、次々と意見が飛び交い始める。「こちらの明るい色もお似合いです」「いいえ、やはりこの色が」と、広げられたドレスを指差しながら笑顔で語り合う声が響く。
その空気に自然と引き込まれながら、オフィーリアは密かに考える。贅沢に着飾ることへの戸惑いは、まだ完全には消えていない。けれど、これからはその場に相応しい装いをすることも自分が担うべき役割のひとつなのだ——そう自分に言い聞かせながら、オフィーリアは次々と運ばれてくるドレスに目を向けた。
室内用と外出用のドレスを何着か選び終えた頃、ヘレーネが新しい部屋への案内を告げる。扉が開かれた瞬間、空気が一変した。まるで可憐な花々に彩られていた空間が、宝石箱の中のような煌びやかさを帯びるような。
夜会や舞踏会のために仕立てられたドレスの数々。その中でも、深い紫に金糸の刺繍が施された煌めくドレスを目にした瞬間、胸の奥で何かがきゅっと締め付けられた。
以前に見た夜会服のテオバルトの姿が脳裏に浮かぶ。夕陽を受けて静かに輝く濃紺の夜会服、その銀糸が描く刺繍の優美な流れ。それは完璧で、どこか触れることを躊躇わせる彫像のようだった。
金褐色の髪は光に溶けるように淡く染まり、琥珀色の瞳に宿る威厳と美しさがあまりにも眩しくて。まるで遠い星のような、触れることさえ叶わない存在——そう想っていた記憶が、今でも鮮明に残っている。
けれど今、自分は彼の婚約者としてここにいる。あの夜の煌びやかな世界に足を踏み入れる日が、そう遠くない未来に迫っているのだと思うと、期待と不安が入り混じった感情が胸の中でざわめく。
その時、彼の隣で自分はどんな表情を見せることができるだろう。夢のように思えた世界が、今、確かな現実として目の前に広がっている。
「とても美しいですね……」
そっと生地に触れながら、オフィーリアは静かに目を伏せた。かつて華やかに着飾り、望まれるまま歌っていた少女の記憶が、ふわりと胸の奥を過ぎる。懐かしさと共に、どこか切なさも滲む思い出。けれど今、この手に触れる生地の感触は、まるで違う温もりを運んでくる。
深い紫のドレスをもう一度見つめる。銀糸の刺繍が描く優美な模様はまるで夜空に輝く星屑のよう。この一着がこれから自分が進む道を、静かに、けれど確かに照らしてくれる。テオバルトの隣に立つ自分を、誇れる日がきっと来る——そう信じることができた。
いくつものドレスを次々と試着する間、オフィーリアの心は少しずつ高鳴りを増していった。上質な生地が優しく体を包み込む感触は、まだどこか落ち着かない気持ちを掻き立てる。鏡に映る自分の姿に戸惑いを覚えながらも、侍女たちの嬉しそうな表情や、ヘレーネの的確な助言に導かれるように、一着、また一着と選んでいく。その過程で、不思議と胸の奥に小さな期待が芽生えていくのを感じた。
「サイズ補正が終わり次第、すぐに屋敷へお届けいたします」
ヘレーネの柔らかな声に軽く頷き、オフィーリアは試着部屋を後にする。廊下に出た瞬間、クラウスの姿が目に留まった。誰かと言葉を交わしているその様子に、思わず足を止める。
声を潜めて話し込む相手は、淡い茶色の髪を持つ青年だった。すらりとした背筋と控えめでありながら凛とした佇まい。着ている服からしてもこの店の店員ではないようだ。オフィーリアがそう感じた時、青年はこちらに気付くこともなく、静かな足取りで去っていった。
「クラウス様、お待たせいたしました」
声をかけると、クラウスが振り返り、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「お疲れ様でございます。ドレスはお気に召しましたでしょうか」
「はい。一着一着が本当に素晴らしくて……」
言葉を選びながら答えるオフィーリアに、クラウスは満足げに頷いた。その後、さりげなく視線を店の出口へ向ける。
「彼については、また改めてご紹介させていただきます。今はそろそろお帰りのお支度を」
その言葉に軽く首を傾げながらも、オフィーリアはそれ以上の詮索を控えた。けれど帰路に着きながら、あの青年の凛とした佇まいが、何度か心に浮かんでは消えていった。




