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第四話 小さな光

「お嬢様。ラウレンティア大公国までは三日を予定しております。道中、どうか少しでもお休みになってくださいね」


 そんな優しい声と共に、馬車の扉は静かに閉じられた。その音は人生の新しい章の始まりを告げるようでもあり、また牢獄の扉が閉まるようにも感じられる。

 オフィーリアは座席に身を沈め、深く長い息を吐く。まだ胸の奥で心臓は早鐘を打っている。

 脳裏にはエリオンの姿がちらついた。王宮で過ごした八年間、彼は兄のような存在だった。

 慣れない環境に戸惑う自分を助けてくれた優しさを今も覚えている。新しい曲を覚える時の緊張、初めての舞踏会での不安——そのたび、彼は励ましの言葉をかけてくれた。


 だが、今では彼の姿そのものが恐ろしくて仕方ない。あの夜の記憶がまとわりつき、逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。王族の男性という存在そのものが、オフィーリアの心に深い傷を刻んでいた。


(エリオンは悪くない。それはわかっている……でも)


 震える手を膝の上で握りしめる。彼の存在は、過去の傷を容赦なく抉る鏡のようだった。あの夜の冷たく支配的な瞳は未だにオフィーリアを縛り付けている。


 ゆっくりと馬車が動き出し、窓の外に広がる景色が揺れる。その視線を追いながら、オフィーリアはシュルテンハイム侯爵という未知の存在に想いを巡らせた。


(侯爵様は何をお考えなのかしら……こんな私を妻にするだなんて)


 どれだけ考えても答えは見つからない。ただ、自分がその座に相応しくないことは確かだった。


(だって私は平民で、……孤児だもの)


 物心ついた時には孤児院にいて、親兄弟の顔も知らない代わりに、たくさんの家族がいた。寒さと空腹に耐えながらも、彼らの笑い声に支えられて生きてきた。

 夜、寂しくて泣く子がいれば、オフィーリアは——リアは歌を歌った。小さな声で響くその旋律がみんなの心を落ち着かせ、穏やかな眠りをもたらした。それがリアにとって歌の始まりだった。

 八歳の時、自分の歌が価値を持つことを知った。市場や宿屋で歌えば、少しの小銭やパンをもらえる。それを孤児院に持ち帰り、みんなで分け合うたび、胸が満たされるような喜びを感じた。


 その喜びは、十歳の時に形を変えた。

 王宮に招かれたリアは大広間で歌を披露した。黄金の装飾に囲まれた大広間は孤児院とはまた異なる寒々しさがあった。聴衆はガレス王と宰相と、ごくわずかの大臣たち。品定めするような不躾な視線は、歌い終えた頃には賞賛のものへ変わった。

 歌い終えると、ガレス王が満面の笑みを浮かべながら拍手を送った。


『素晴らしい! これからはぜひこの城住んで、歌ってもらいたいものだ。君の歌で、私を助けてほしい』


 その言葉にリアは困惑したが、答えは決まっていた。


『私がここに住むことにしたら、孤児院のみんながお腹を空かせてしまいます』


 ガレス王は目を見開き、次に朗らかに笑った。そしてこう続けた。


『それならば。君がここに住む代わりに孤児院には十分な援助を送ると約束しよう』


 その言葉に安堵し、幼いリアは城で歌うことを決めた。それが誰かを助けるなら——その純粋な願いを信じていた。

 けれど、今ならわかる。それはただの方便に過ぎなかったのだと。


 王宮での日々は華やかだった。舞踏会や祝宴の場で歌い、賞賛されるたびに、自分が誰かの役に立てている喜びを感じていた。その瞬間だけは自分の存在に意味があると信じることができた。


(あの頃の私は、望まれて歌っていると思い込んでいただけだった……)


 その認識が、今では痛みを伴って胸に突き刺さる。


 声を失い、離宮に幽閉されてから初めて気付いた。ガレス王が満面の笑みを浮かべていたのは、彼の支配欲が満たされた時だけだったことに。彼にとって自分はただの道具であり、手元に置いておく限りでしか価値がなかった。

 高価な装飾品が古びて捨てられるのと同じように、歌を失くしたオフィーリアも処分され、こうして北に運ばれていく。

 それでも——オフィーリアは目を閉じた。幼い頃に感じたあの小さな安らぎだけは嘘ではないと、自分に言い聞かせる。それは心の奥底に残された、たった一つの慰めだった。


(こんな私が、侯爵様の正妻になれるはずがない……きっと何かの間違いだわ)


 もしかしたら、愛人のように囲われるだけなのでは——その考えが頭をよぎった瞬間、全身が凍り付くような感覚に襲われた。

 何の言葉も発することができない自分が、無力なまま誰かの思い通りに扱われる未来が浮かぶ。それは、あの夜に感じた恐怖と酷似している。


(また、あの時のように、物のように扱われるのは……)


 夫婦という関係の元、見知らぬ男に自分の身体を開け渡さなければならない恐怖に、冷たく湿った汗が背筋を伝う。

  

 窓の外では、新しい街道へと向かう商人たちの荷車が行き交っている。それは冷たく無機質な現実を象徴しているように思えた。自分とあの荷物と、何が違うというのだろう。


(場所が変わっても、私は誰かに所有されるだけ……)


 オフィーリアは手の中にある、小さな布袋を握り締めた。あの王宮から持ち出した唯一のものだった。

 静かにため息を吐き、オフィーリアは何もかも諦めるような気持ちでそっと目を閉じた。希望など最初から持ってはいけない。それがあの離宮で学んだ生き方だった。


 馬車の軋む音だけがただ、オフィーリアの絶望を覆い隠すように規則的に響き続けていた。

 それでも、北の国で待つ侯爵がどのような人物なのか、その答えだけは、まだ誰にもわからなかった。

 その不確かさの中に、わずかながらの可能性が潜んでいるかもしれない——そんな思いが、オフィーリアの心の片隅で微かに灯っている。

 それは希望と呼ぶにはあまりに小さな光だったが、それでも、完全な闇ではなかった。

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