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第四十九話 心を預ける瞬間

 夕暮れの陽が窓辺を赤く染める頃、テオバルトが外務省から戻ると、玄関で待っていたのはオフィーリアだった。一日の疲れが染み込んだ体が、その姿を見ただけで少し軽くなる。


「リア、ただいま戻りました」

「おかえりなさいませ、テオバルト様」


 柔らかな微笑みと共に頭を下げる仕草に、知らず知らずのうちに緊張が解けていく。

 この数日、オフィーリアは着実に屋敷での暮らしに馴染もうとしていた。クラウスから屋敷の管理について教わり、使用人たちとも少しずつ打ち解けている様子が窺える。自分から婚約を申し込んだ時には想像もつかなかった光景が、今は確かな日常になりつつあった。


 書斎へ続く廊下を歩きながら、テオバルトは傍らのオフィーリアへ目を向けた。 


「今日はどのように過ごされていたのですか?」

「夏に向けて、庭園をどのようにするか庭師と相談しました。白薔薇の植え替えをしようと思います」

「そうでしたか」


 相槌を打ちながら、その表情から目が離せない。青灰色の瞳に宿る輝きは、まるで小さな宝石のように美しい。

 新しい環境に一歩ずつ踏み出そうとする彼女の姿に、テオバルトは胸を熱くする。自分の選択が彼女の人生を大きく変えてしまうという後ろめたさと、それでも共に歩もうとする彼女への愛おしさが、胸の中で複雑に絡み合う。


 暖かな灯りに照らされた書斎に足を踏み入れる。控えのベルナが静かに一礼し、部屋の隅に立つ。

 普段の穏やかな空気とは違う、何か期待に似た緊張が漂っているのを感じ取り、テオバルトの背筋が僅かに伸びる。 

 椅子に腰掛けたテオバルトの目に、テーブルの上の分厚い本が飛び込んでくる。社交の要とも言えるその表紙を見た瞬間、心臓が一拍分躊躇するように止まった。


「……貴族名鑑?」


 思わず声が上ずる。その瞬間、オフィーリアの決意の重さがまるで実体を持ったかのように胸に響いた。

 彼女は少し頬を染め、書斎の本棚で見つけたのだと言う。その仕草には、まるで禁断の書を覗き見てしまった子供のような、かすかな後ろめたさが滲んでいた。


「はい。今から少しずつでも覚えておいた方が良いと思いまして」


 隣に座るオフィーリアはそう言いながら本の頁をめくる。その瞳には決意の光が宿っている。


「ラウレンティアの社交界についてはあまり詳しくありませんけど、知っている方はいます」


 細い指先が指し示したのは、ある伯爵家の記載。


「この方、音楽祭でお会いしたことがあります。当時はご結婚されたばかりで、とてもお幸せそうでした。それが、もうお子さんが二人もいらっしゃるなんて……」


 夫人とドレスの色が同じだったこと。夫妻の髪飾りとブートニアには同じ花が使われていたこと。それらをまるで昨日のことのようにオフィーリアは語る。五年という歳月を超えて、あまりにも鮮やかに描き出される光景に、テオバルトは息を呑んだ。


「……よくそこまで詳しく覚えていますね」

「はい。お会いした方のことはすべて覚えておくようにと言われていて」

「すべて、ですか」


 オフィーリアは一瞬だけ目を伏せ、また穏やかに微笑んだ。


「慣れるまでは少し大変でした。でも、それも私の務めでしたから」


 その言葉の裏に隠された重みが、テオバルトの胸を強く打つ。幼い少女は、どれほどの重圧と緊張の中で生きていたのだろう。

 オフィーリアは決してその時の苦しみや孤独を口にしない。しかし、彼女の沈黙そのものが痛みを雄弁に物語っていた。


「……テオバルト様は、私が社交界に出ることをあまりお望みではないのでしょうか」


 いつかその問いが向けられることは想定内であったはずなのに、テオバルトは一瞬返す言葉を見失う。少しだけ視線を落とし、言葉を選ぶ。


「楽しいばかりではありませんからね。あなたが不愉快な思いをするかもしれないと考えると、気が進まないのは確かです」


 平民出身でありながら歌姫として名を馳せ、突如として姿を消した。その経歴は、きっと様々な憶測や好奇の的となるだろう。

 しかし北方の動向が気になる中、外務卿の婚約者として公の場に姿を現すことは、単なる社交界の噂話に留まらない可能性をも秘めていた。

 だがその懸念を今、オフィーリアに話すべきではなかった。婚約したばかりの彼女に、政治的な駆け引きの心配までさせたくはない。


「あの頃も……すべての方が私の歌を褒めて、認めて下さったわけではありませんでした」


 オフィーリアの静かな声が、テオバルトの思考を中断する。時には真正面から嫌味を言われることもあったと語る彼女の表情に、過去の影は見えない。その瞳には、ただ未来への強い決意が宿っている。


「自分が異質な存在だという自覚はありますし、テオバルト様の婚約者ともなれば注目されるのは当たり前のことです。でも、テオバルト様がおそばにいてくださるなら、きっと大丈夫です。これまでだって、そうでしたから」


 その言葉に、テオバルトの胸は熱く締め付けられた。自分の隣に立とうとするオフィーリアの覚悟が、深い感動と共に、罪悪感にも似た痛みを呼び起こす。


「あなたのお気持ちは理解しました。話してくださってありがとうございます」


 本の上に置かれたオフィーリアの手に、テオバルトは自らの手を重ねた。驚いたようにわずかに跳ねる小さな手を優しく握り込む。


「あなたの覚悟と努力を無駄にするつもりはありません。ただ少し、慎重に動きたいのです。どうかその点は理解してください」

「……わかりました」


 オフィーリアの手の震えが少し収まり、代わりに、その温もりが静かに伝わってくる。


「具体的なことはこれから、二人で少しずつ考えていきましょう」


 テオバルトは一度深く息を吐き、決意を固める。


「その前に、まずは私の家族にあなたを紹介したいと思っています」


 そう言葉を告げた瞬間、オフィーリアの肩が小さく震えるのが見えた。期待と不安が交錯する彼女の表情に、テオバルトは思わずその肩へ手を伸ばしかけて、しかし途中で留めた。今は、彼女の覚悟を見守るべき時なのだと、自分に言い聞かせる。


 テオバルトは慣れた手付きで貴族名鑑の頁をめくる。生家、レーヴェンハースト伯爵家の頁が開かれる。そこには父と、亡き母、そして二人の兄の記録が並ぶ。

 自分の婚約者としてオフィーリアを紹介する時、彼らはどんな反応を示すだろう。そう考えつつも、家族にオフィーリアを紹介することへの不安はなかった。

 厳格な長兄は、伯爵家の一員となることへの覚悟を問うはずだ。次兄は表立って反対はせずともその人柄を見極めようとするだろう。

 かつて外交官だった父は歌姫時代のオフィーリアとも面識がある。政略結婚を強いることのない父だが、今の彼女をどう見るか。


「お父様とは何度かお会いしたことがあります。幼い私にも敬意を払ってくださる、とても穏やかで親しみやすい方でした。……テオバルト様の目の色は、お母様譲りなのですね」

「ええ、そうです。母は優しい人でした」


 物心付いた時、母は一日のほとんどの時間を寝台の上で過ごしていた。大きな窓から差し込む陽の光に照らされた母の横顔は、いつも儚げで美しかった。

 体調を崩すことになったきっかけが自分の出産だったと知ったのは、執務室に残された古い診療記録を見つけた日のこと。

 父と兄達が公都に滞在する期間も、テオバルトは領地で母と共に過ごすことを選んだ。


 遠い記憶は日に日に、まるで白い霧の向こうにあるかのようにぼんやりしていく。しかし、今でも鮮明に思い出せるものがある。

 寝室に置かれた木製のオルゴールから流れる繊細な音色と、それを聴きながら浮かべる母の微笑み。弱々しい体で、それでも自分の手をそっと握りしめてくれた温もり。

 母を看取ることは叶わなかった。けれど自分に最期まで優しく手を差し伸べ続けてくれた母の記憶が、今の自分の在り方を形作っているのかもしれない。


「……テオバルト様のその表情、お父様にそっくりです」


 オフィーリアの言葉に、テオバルトは我に返った。

 一度だけ父から母の話を聞いたことがあるのだと、オフィーリアは言った。


「お父様も奥様のお話をされる時には、そのような優しい表情をされていました」


 その言葉に、テオバルトの胸が熱くなる。十年前に母を見送ってから、父が彼女のことを口にすることは少なくなった。

 しかし誰もいない夜更け、母の肖像画を静かに見つめている姿を見かけることはあった。その背中には、言葉にできない深い想いが滲んでいた。


「父は今でも、母のことを深く想っているのでしょう」


 テオバルトは少し視線を落とし、微笑んだ。父の背中に見た想いの深さを、この数日、少しずつ理解できるような気がしていた。

 日々の何気ない仕草や表情の中に、オフィーリアへの想いが自然と滲み出てしまうことがある。父もまた、そうだったのかもしれない。


「リア」


 その名を呼んだ時、不思議と胸の奥が温かくなる気がした。ここ数日、二人の間で交わされる言葉の一つ一つが、新しい意味を帯びている。それは戸惑いながらも、確かな幸せを運んでくれる。


「私も、あなたにとってそんな存在になりたい」


 率直な言葉が、思いがけず口をついて出た。婚約してからというもの、伝えたい想いは日に日に深まっていく。けれどそれを言葉にすることは、まだどこか照れくさい。

 オフィーリアがこちらを見上げる。青灰色の瞳が大きく揺れ、その中に細かな光が宿った。日々の暮らしの中で見せる表情とは少し違う、初めて出会った頃を思わせる儚さが、そこにはあった。


「テオバルト様……」


 かすかに震える声に、自分の言葉が持つ重みを改めて実感する。母から受け継いだ温もりを、今度は自分が大切に育んでいきたい。その想いは彼女と過ごす日々の中で、少しずつ形を成していくのだろう。


 オフィーリアは言葉を探すように一瞬目を伏せ、また静かに顔を上げる。その仕草には、どこか儚げな美しさがあった。


「テオバルト様はいつも……私の小さな世界を、優しく、大きく広げてくださる方です」


 その声には、深い信頼と、かすかな憧れが混ざっていた。テオバルトはその言葉の重みに、胸が熱くなるのを感じる。


「伯爵家の一員として認めていただけるように、ご家族の期待に応えられるように、精一杯努めます」


 今度はオフィーリアの方から、かすかに震える指先でテオバルトの手に触れる。その仕草に、彼女なりの決意を感じられた。

 テオバルトは黙ってその手を包み込む。二人の間に流れる静寂が、言葉以上に二人の心を繋いでいた。

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