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第四十八話 愛と責任の幕開け

 目を開くと、薄いカーテン越しの朝の光が頬を撫でていた。まだ薄れゆく夢の中にいるような感覚の中、ふと昨夜の記憶が蘇る。彼を待っていたはずなのに——?

「また……寝てしまったの?」

 思わず漏れた声に自分で驚く。応接室のソファで待っていた記憶が最後。その後のことを思い出そうとしても、ほんのわずかな感触しか残っていない。抱き寄せられた腕の確かな力と、服越しに染み込むような温もり。 


 身体を起こし、寝台脇のテーブルに置かれたカードを手に取る。

『昨夜はお疲れのご様子でしたね。どうか無理なさらず、今日も良い一日をお過ごしください』

 見慣れたはずの文字なのに、今朝はどこか特別に胸に響く。指先でそっと文字をなぞりながら、オフィーリアは思わず微笑んだ。

 そして、ふと目にした時計の針がオフィーリアの心臓を跳ねさせる


 急いで寝台を降り、控え室の扉を叩く。にこやかな笑顔で現れたベルナへ、オフィーリアは挨拶もそこそこに気掛かりなことを尋ねた。

「テオバルト様は、もう出仕されてしまった?」

 ベルナはちらりと時計を見た。同時に、オフィーリアが言わんとすることを察したらしい。焦茶色の瞳が真剣な色を帯びる。

「まだご在宅だとは思いますが、そろそろお時間ですね。——急げば間に合いますわ」

 

 ◇

 

 昼過ぎのサロンにはいつも通り穏やかな空気が流れている。

「今朝はあなたのおかげで助かったわ。ありがとう、ベルナ」

 オフィーリアは小さく微笑みながら言った。

「お見送りに間に合ってなによりです。テオバルト様にも喜んでいただけましたね」

 ベルナの言葉に、オフィーリアはふっと視線を逸らす。けれどその先にある花瓶を見た瞬間、思い浮かぶのは、今朝もその花を交換した人のこと。

「そ、そうね……」

 そう答えながら、先ほどまでの光景が鮮やかに蘇る。


 少し急ぎ足で廊下を抜けた先で、テオバルトの姿を見つけた時の、あの胸の高鳴り。玄関の近くでクラウスと何か話をしていた彼は、オフィーリアの足音に気付いたように振り返る。

『おはようございます、リア』

 そう言って微笑んだ彼の表情が、今まで見たどの笑顔よりも眩しく見えた。自然と胸が躍る。

 『行ってまいります』と告げるテオバルトの声には、どこか嬉しさを隠せない響きが混ざっていた。その言葉に続けるように、彼はオフィーリアの肩を流れる髪を一房取り、毛先に軽く口付ける。

 使用人たちが控える中でのその行動に、思わずオフィーリアは固まってしまった。


 その後ろ姿が扉の向こうに消えてしまってから、一部始終を見ていたクラウスの『ひどい浮かれようですね』というぼやきが耳に届く。何事かと思って振り返れば『テオバルト様のことですよ』と、彼はどこか呆れたような、でも優しい表情を浮かべていた。

(浮かれている? テオバルト様が?)

 確かに少し、普段より機嫌が良かったかもしれない。もし、それが本当なら——オフィーリアは思わず口元に手を当てた。嬉しさで頬が熱くなる。


 紅茶に映る自分の表情が、いつの間にか柔らかく緩んでいた。改めて交わされた婚約の誓いは、オフィーリアに新たな立場をくれた。それはとても大切で、大きな意味を持つものだった。

(——私は、この場所にいても、いい)

 自分に都合の良い夢ではない。いつか終わるものだと、恐れる必要はもうない。彼の隣に立つ未来を想像することを許されている。

 そう考えるだけで胸が満たされていく。けれど、それと同時に、新たな迷いも生まれていく。


(でも、そのために私は何をするべきなのかしら……)

 自分に自信を持てるようになるまで待ってほしいと告げておきながらその実、具体的に何をすれば良いのかまでは考えが及ばないでいた。

 オフィーリアは思い切って、その疑問をベルナに尋ねた。婚約の話を告げた時、自分のことのように喜んでくれた侍女は少し考えてから、穏やかに微笑む。


「まずは屋敷の管理からされると良いのではないでしょうか。今はクラウス様がすべて取り仕切っておられますから、一度ご相談なさるのが良いと思います。お呼びいたしますね」

 そう言って去っていくベルナを見送りながら、オフィーリアは小さく息を吐いた。自分がこの屋敷の管理に携わる姿なんて想像もできない。戸惑いと同時に、これが婚約者としての一歩なのだと改めて気合を入れ直す。 


 やがて静かにクラウスがサロンにやってくる。

「お呼びだと伺いました。奥様」

 その一言で、オフィーリアの心臓が跳ねた。奥様——まるで夢のような響き。

「まずはご婚約の成立、心よりお祝い申し上げます」

 生真面目な彼らしい言葉に、オフィーリアは小さく頷いた。婚約。その言葉を聞くたびに、あの誓いが鮮やかに蘇る。もう終わりの見える夢ではなく、テオバルトの隣に立つことを、自分で選んだのだ。

「ありがとうございます。その上で、ご相談したいことがありまして」

 声が震えないよう気をつけながら言葉を紡ぐ。クラウスはそれを待っていたかのように手にしていた書類の束をテーブルに置く。


「今後、奥様に担っていただく内容についてまとめておきました。簡単にご説明いたします」

 書類の厚みに目を見張りつつ、着席を促されたオフィーリアは手近な席に座る。

 説明を聞きながら書類に目を落とすと、細かな文字でびっしりと書いてある。その光景は初めて書斎で専門書を読んだ時を思い起こさせた。

 けれどあの時に比べたら、まだ意味が理解できる。使用人の雇用から給金や休暇の管理、献立の選定や食材の仕入れ、屋敷内の装飾や家具の管理——


 すべてがテオバルトの日々を支えるために必要なこと。そう思うと、一つ一つの項目が愛おしく思えてくる。しかし、その中に『財務管理』という項目を見つけ、オフィーリアはわずかに眉を寄せた。

「クラウス様。私、財務管理は特に自信がありません……」

 テオバルトとの勉強会で税については学んだものの、まだ深くは理解できず、苦手意識がある。けれどクラウスは柔らかな笑みを浮かべる。


「帳簿の管理などは私が行いますので、奥様には最終的な決裁していただければ十分です。そして、すべてのことを今すぐ完璧に行おうとする必要はございません。通常は半年から一年程度かけて覚えていかれるものです」

「一年……そんなにかかるのですね」

 その言葉にほっとしつつも、改めて胸が締め付けられる。これだけの時間をかけて学ぶということは、それだけの重みがあるという証。テオバルトの妻として、求められる役割の大きさを思い知る。


「貴族の婚約期間としては一般的です。勿論、さらに長い期間を設けることも珍しくありません。婚約自体も正式な手続きは済んでおりませんので、これから少し忙しくなるかもしれませんね」

 両者の合意だけでは決まらないのだと知り、オフィーリアは息を呑んだ。貴族社会の厳格さを今になって実感する。これまでは歌姫として扱われても、決して貴族ではなかった。それなのに今、自分は貴族の一員になろうとしている。

 侯爵夫人。外務卿夫人。その響きは憧れと不安を同時に呼び起こす。かつてのようにただ求められるまま歌を歌えばいい存在ではない。自分の一挙手一投足が、テオバルトの評判に影響を与えるかもしれない。その責任の重さに、一瞬たじろぎそうになる。

 けれど——オフィーリアは深く息を吸った。過去は変えられなくても、これから先は違う。テオバルトの隣に立つと決めた以上、その覚悟も持たなければならない。


「私、頑張ります。まずは何から手を付ければ良いでしょうか?」

 その決意を込めた声に、クラウスは静かに頷いた。

「食事の管理からはじめられるのが良いかと思います。比較的、取り組みやすいかと」

 オフィーリアは再び書類に目を走らせる。調理人や給仕とはこれまで何度か顔を合わせており、名前も覚えている。食事の感想をカードに記して伝えるたび、調理人がとても喜んでいたとベルナから報告を受けた。その小さな関わりが、今となっては心強い。


「旦那様の好みを把握することも大切です」

 旦那様——それは奥様という呼び名以上の素晴らしい響きを持つものだった。オフィーリアの指先が小さく震える。休むことが下手だと言った人。昨夜は帰りが遅かったのに、今日も朝早くに出仕していった人。

 屋敷を切り盛りすることはテオバルトの暮らしを支えることにもなる。それを思うと、先程まで感じていた不安が、少しずつ形を変えていく。


「社交もありますよね?」

 期待に胸を膨らませながら尋ねたオフィーリアに、クラウスの表情が一瞬だけ固くなる。彼は何かを言いかねるように、一度視線を逸らした。

「そこはよく旦那様とご相談の上でお決めいただくのがよろしいかと思います」

 婉曲的な返答に、オフィーリアは思わず首を傾げる。今まで順調に話が進んでいただけに、その慎重な物言いが気になった。


「相談……ということは、テオバルト様には何かお考えが?」

「旦那様は奥様のお気持ちを何よりも大切に考えておられます」

 クラウスの声音はいつもと変わらぬ穏やかさを保っていた。けれど、その言葉の裏に何か隠されているものを、オフィーリアは感じ取る。

「——テオバルト様は、私が社交界に出られることを快く思っていらっしゃらないということですか?」

 緊張と不安が入り混じった声で問いかけると、クラウスは柔らかな笑みを浮かべた。


「そうではございません。ただ旦那様は、奥様のこととなると慎重に慎重を重ねずにはいられないお方なのです」

 その答えかたに、テオバルトの優しさと苦悩が透けて見えるようだった。そこに自分の出自や経歴が関わっていることは明白で。彼の慎重な気遣いは、時としてオフィーリアの心を温めると同時に切なくさせた。


(私のために、そこまで……)

 自分を守るために、テオバルトはまた心を砕くことになる。その負担を考えると胸が痛んだが、そうした彼の協力がなければ、社交界にオフィーリアの居場所はない。

 今は仕方ない。けれど、いつまでも守られるばかりの存在でいたくはない。テオバルトの優しさに甘えながらも、一歩ずつ前に進んでいきたい。いつか彼の隣で胸を張って立てる日が来るはずだから。


 オフィーリアは自分の手元に置かれた書類を見つめ直す。まずは食事の管理から。今は出来ることを一つずつ積み重ねていくしかない。そのために必要な知識も、今のうちから身につけておかなければ。

 オフィーリアの決意と共に、サロンの窓から差し込む陽光が一段と明るさを増していた。初夏の風が庭の花々を揺らし、その光景はまるで新たな一歩を後押しするかのようだった。 


まだ正式な婚約者ではないのだから過度な触れ合いは禁止ですよ、というお話。

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