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第四十七話 夜の帷の下で

 いくつかの案件を片付け、大公との定例会談を終えて大公城を出る頃には、外には既に夜の帳が下りていた。冷たい風が石畳を吹き抜け、重い雲が空を覆う。初夏とはいえ、夜の冷え込みは厳しかった。

 歩みを進めながら、テオバルトはふと侯爵家の馬車が待機しているはずの場所に目を向けた。しかし、そこに刻まれているのはシュルテンハイム侯爵家の紋章ではなく、レーヴェンハースト伯爵家のものだった。

(どうしてここに……)


 馬車の側面にもたれるようにして立つ人影がある。深い藍色の軍服は月明かりに照らされ、わずかに乱れた金茶色の髪が夜風に揺れている。どこか気ままな佇まいだが、その姿からは長年の軍務が刻み込んだ確かな強さが滲み出ていた。

「やあ。久しぶりだね、テオ」

 微かな笑みを浮かべながら、マティアス・ヴェイン・レーヴェンハーストは軽く片手を挙げた。

 思いがけない次兄との再会に、テオバルトは思わず足を止めた。

 

「兄上?」

 予想外の登場に、一瞬目を見開く。

「どうされたのですか、こんなところで……」

 夜更けに軍の参謀局長が待ち伏せしているなど、珍しいことだった。テオバルトが眉をひそめると、マティアスは肩をすくめた。

「可愛い弟の顔を見に行くのに、いちいち理由なんか要らないでしょう?」

 軽口に混じる本音——それが彼のあり方だった。軍人でありながら、貴族社会のしがらみに囚われず自由を謳歌する一方で、家族への想いはどこまでも深い。


「送っていくから、乗って」

「……侯爵家の馬車がありますが」

「もうとっくに帰したよ。夜も遅いしね」

 悪戯を成功させた子供のように、父親譲りの碧眼が細められる。彼がこんな行動に出る時は大抵何か企みがあるのだ。とはいえ、ここで逆らっても仕方がない。テオバルトは短く息を吐いた。

「それでは、お言葉に甘えます」

 そう言いながら馬車の扉を開け、中へと乗り込む。マティアスも続いて乗り込むと、馬車が静かに動き出し、石畳の音が規則的に響く。


 先に切り出したのはテオバルトだった。

「兄上がわざわざ大公城まで来られた理由は、察しています」

「話が早くて助かる」

 マティアスは興味深げに頷き、脚を組みながらテオバルトを横目で見た。その目は好奇心に満ちているが、どこか慎重な光も宿っている。わざわざ馬車に乗せたのも、ここなら会話が外に漏れることがないからだと察しはついた。

「あの外務卿殿がとうとう身を固めるらしいと——今はどこもその話題で持ちきりなんだよね」


 兄の言葉に、テオバルトは苦笑を零す。これまで国内外問わず何百と舞い込んできた縁談を断り続けてきた自分に突然そんな話が出れば、社交界が騒ぎ立てるのも無理はない。特に娘を持つ貴族たちの失望と好奇心の入り混じった反応は、想像するだけで疲れる。

 この貴族社会で、どこか特定の派閥に属するつもりはなかった。仕事に専念したいという理由は方便に過ぎない。ただ、心から共に歩みたいと思える相手でなければ、幸せな家庭など築けないと信じていた。両親がそうであったように。

 貴族として、政略結婚という選択肢もあっただろう。だが、それは相手の人生を軽んじることに他ならない。自分が心から向き合えない結婚など、してはならないものだと、ずっとそう考えてきた。


「私としてはもう少し静かに過ごしたいものですけどね」

 テオバルトは息を吐く。若くして結婚し、幸せな家庭を築いたマティアスには、自分の頑なさは理解し難いかもしれない。

「それが兄上方のご迷惑になっているのであれば申し訳ありません」

「迷惑ではない。ただ——事情が事情だから、本当に大丈夫なのかって心配してるんだよ」

 顰められた声には、マティアスらしからぬ真剣さが滲んでいた。彼は普段、軽口を叩いて場を和ませることが多いが、本当に心配している時はこうして口調が変わる。


 その心配は痛いほど理解できた。家族には事前に話を通していたが、伝えたのは真実の一部に過ぎない。隣国で不当な扱いを受けている女性を、大公の意向で保護する——そう説明した時、父の困惑した顔と長兄の躊躇いがちな返事は今も胸に残っている。それでも、何も問わず受け入れてくれた家族への感謝は、日に日に深まるばかりだ。

「実は、正式に婚約を交わしました」

 そう言葉にした時、胸の奥に温かなものが広がるのを感じる。オフィーリアの手を取り、正式に彼女を伴侶とする決意を固めた時の感情が、今も鮮やかに蘇ってくる。

 生涯を独身で過ごすことも覚悟していた自分が、こうして誰か共に歩もうと決意するなど、以前の自分には想像もできなかったはずだ。

 

「なんだ——上手くいっているなら、そう心配することもなかったか。でもそうなら、もっと早く言ってくれれば良かっただろう。父上も兄上も、この件はずっと案じておられる」

「なにしろ今朝のことですから」

「今朝?」

 軍部に関わる人間としてあまり感情を顔に出さない兄が、そうして唖然とするのは珍しいものがある。思い返せば、なかなかに忙しない一日だった。


「将来についてはこれから二人で考えます。ただ彼女にはまだ時間が必要です。どうか今しばらくは静かに見守ってください」

「わかった」

 短い返事には、兄から弟への深い信頼が込められていた。父も兄も、いつも自分の選択を尊重してくれる。その温かさが今更ながら胸に沁みた。

 それでもマティアスはまだどこか腑に落ちない様子で腕を組み、しばらく考え込んでいた。そして、ぽつりと呟く。

「まぁ、きみをそこまで夢中にさせるなら、それなりに魅力のあるご令嬢なんだろうね」


「それなり、ではありません」

 声には自然と力がこもった。その一言が、オフィーリアが自分にとってどれほど大切な存在であるかを物語っている。

「彼女はとても聡明で思慮深く、それでいて強い意志を持った人です。共に歩むに値する人物だと、心から思っています」

 自分でも驚くほどその声には確信が滲んでいた。これまで誰かをこんなふうに語ったことはない。兄が呆気に取られたような顔で、まじまじと見つめてくるのも無理はないことだった。


「失言だった、謝るよ。……いや、驚かされたと言うべきかな。まさかテオがそんな顔で、そんなことを言う日が来るとはねぇ」

 感心したような、どこか呆れたような声音だった。

 マティアスは脚を組み直しながら、じっと弟を見つめる。いつもの飄々とした笑みは影を潜め、その瞳には少しばかりの興味と、兄として弟を見守る真剣な光が混じっていた。


 その時、馬車の揺れがわずかに変化し、速度が落ちていく。視界の端に、屋敷の門が見えていた。

 シュルテンハイム侯爵家の広大な敷地へと続く鉄細工の門が、守衛の手によって開かれる。その向こうには、夜の闇に浮かぶ白亜の館が佇んでいた。

 車輪が敷石を踏みしめながら、ゆっくりと進んでいく。並木道の両脇に立ち並ぶ街灯が、柔らかな光で馬車の行く手を照らしていた。手入れの行き届いた庭園には、月の光が静かに降り注いでいる。

 やがて馬車は、玄関前の円形の車寄せにゆるやかに止まった。


「それじゃあ、ここで」

 マティアスは軽く背伸びをしながら、テオバルトに視線を向ける。その表情は、まだ言い足りないことがあると語っていた。

「婚約者殿については、いずれ紹介してくれると思っていていいんだよね?」

 テオバルトの返答を待ちながら、マティアスの瞳に微かな探るような光が宿る。それでも、それ以上何かを言うことはなく、ただ軽く笑みを浮かべるだけだった。

「はい」

 短い返事に、マティアスは満足げに頷く。

「無理はしないようにね」

 短い言葉を残し、馬車は静かに動き去った。

 

 ◇

 

 夜の帷が深く垂れ込めた頃、シュルテンハイム侯爵邸は静寂に包まれている。初夏の夜風が心地良く頰を撫で、遠くで虫の音がかすかに響く。

「お帰りなさいませ、テオバルト様」

 出迎えに現れたのは普段通りにクラウスだった。深々とした礼の後、彼はふと穏やかな微笑を浮かべる。その表情にはどこか楽しげな、そして微笑ましそうな色が滲んでいた。


「……何かあったのか?」

 その様子にテオバルトが少し眉をひそめると、クラウスは軽く首を横に振った。

「いえ、ただ——直接ご覧になられた方がよろしいかと」

 一瞬、言葉を選ぶような間があったが、すぐに続ける。

「応接室へご案内いたします」

 クラウスの態度にわずかな違和感を覚えながらも、テオバルトはその言葉に頷き、後をついて歩く。

 玄関からほど近い応接室の扉が静かに開かれると、そこには——小さく体を丸めるようにして、ソファの端で眠るオフィーリアの姿があった。柔らかな白金の髪が頬にかかり、寝息は穏やかだ。静かに胸が上下しているのを見れば、深く眠っているのが分かる。


 テーブルの上には開かれた本とノートが並び、ペンが置かれていた。ノートには整った文字で先日教えた部分がまとめられている。

 そのそばで静かに控えていたベルナが、テオバルトの姿を認めると小さく微笑み、そっと囁く。

「テオバルト様のお帰りを待ちたいと、つい先程まで起きていらしたのですが……」

 その言葉に、テオバルトは目を伏せる。遅くなる旨を伝えていたのに、こうして待っていてくれた。その事実が温かく胸を満たしていく。


「私が運ぼう」

 脱いだ上着をクラウスに渡し、小さな身体を抱き上げる。相変わらずの軽さに、守りたいという想いが強まる。

 腕の中でオフィーリアがわずかに身動ぎし、無意識にテオバルトの服を掴む。その仕草があまりに愛おしくて、テオバルトは思わず額に口付けを落とす。

 守るべきものが増えることは、確かに弱点になるかもしれない。だが、それ以上にこのぬくもりが自分を支える理由となる。彼女を守るために、どれほどの困難があろうとも乗り越える。それが自分がこの手に抱いた覚悟だった。


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