第四十六話 火種の燻る静寂
「失礼する。少々、時間をもらえるかな」
長い黒髪を後ろに束ねた男——軍務卿マクミシリアン・オルデンベルグ。
詰襟の軍服を隙なく着こなし、どこか余裕すら漂わせる佇まいは、テオバルトが軍人だった頃と変わらないどころか、年月を経てより研ぎ澄まされている。
積み重ねてきた経験と冷静な判断力、そして部下たちからの確かな信頼。それらが醸し出す雰囲気は余計な言葉すら不要に思えるほど。
戦場での大胆な決断と、部下への繊細な配慮。相反する資質を完璧に併せ持つ姿は、まさに完璧な軍人そのものだった。そうした資質を備えた者だけが、戦場において真の意味で人を導くことができる。
それは、ついぞテオバルトが持ち得ることのできなかったものだ。どれほど尽力しても、どれほど結果を出しても〝何か〟が足りなかった。その自覚が、今でも胸のどこかに残っている。
「オルデンベルグ卿。お越しいただいているとは聞いておりませんでした。何かご用でしょうか」
かつての上官の姿を見て、自然と姿が伸びる。軍を去った今も尚、彼の前では無意識に敬意を払ってしまう。それほどまでに、この男が歩んできた道には揺るぎない重みがあった。
「先程の騒ぎを見ていた。あれが例の——随分と不機嫌そうだったな」
「特に目新しいことはありません。相変わらず、自分の要求が正当だと信じているのでしょう」
テオバルトの淡々とした返答に、マクミシリアンは片眉を上げ、肩をすくめる。軍での経験を共有している彼と、北方への警戒心は理解し合えているはずだ。
そして彼は「さて、本題だが」と切り出すと、手にしていた封蝋付きの封筒を掲げる。
「随分と興味深い情報が揃った。どう使うかは君に任せる」
テオバルトはその厚みを確認し、予想以上の分量にわずかに目を見開いた。
「随分と早いですね。ありがとうございます。しかし、ご連絡いただければこちらから伺いましたものを」
「君の期待には応えたいと思ってな。それ以上に——最近の君の様子が気になった。外務省に入ってからというもの休みなく働いていると聞いていたが……最近はそうでもないようで安心した」
突然の指摘に、テオバルトは驚きを隠しながらも薄く微笑む。その言葉の裏には、長年にわたり自分を見守ってきた者ならではの洞察があることを感じた。
「そうですね。ようやく余裕を持つ方法を見つけたのかもしれません」
外務省に異動して以来、身を焦がすような焦燥感に駆られるまま、無休で働き続けてきた。それは大公に『もう少し自分を労わるべきだ』と苦言を呈させたこともあるほどだった。
だが、最近になりようやくその忠告の意味を実感し始めている。
「それはいいことだ。君が人並みに休むようになれば、大公閣下も安心されることだろう」
マクミシリアンの声には、ほんのわずかな安堵と、からかうような親しみが混じっている。
その言葉に、テオバルトは静かに息をつく。自分の変化をこうして指摘されるのは、照れくささと同時にどこか温かさを感じさせた。
「状況が変われば、優先すべきことも変わるものです」
その言葉にマクミシリアンは目を細め、左手で自分の顎に触れる。そこに輝く指輪が、テオバルトの胸に柔らかな余韻を残す。
オフィーリアに贈る指輪のデザインはまだ決めかねていた。彼女にふさわしい輝きを持つものを——だが、すぐに思考を切り替える。
「君が肩の力を抜くようになったのは悪くない。今後も、何かあればいつでも言うといい。——それから、マティアスも君のことを心配していた。たまには顔を見せなさい」
見送りは不要だと言い残して去るその後ろ姿が視界から消え去ると、テオバルトは改めて封筒を持ち直す。視線は鋭く、次なる会談に向けてすでに頭を回らせていた。
◇
応接室に満ちる静寂は、これから始まる駆け引きの前触れのようだった。
テオバルトはその広い部屋の中央に設られた椅子に腰掛け、テーブルを挟んで向かいに座る老公を観察した。
アルヴィン・グレンダー公爵。わずかに白を交えた髪は長年の政治経験を物語っている。その瞳に宿る鋭さは歳を重ねても衰えることなく、一挙手一投足に老獪な計算が滲む。北方の政治家として生き残ってきた男の持つ、揺るぎない存在感だった。
互いの挨拶が交わされ、形式的な言葉が室内に響く。しかしそれは本題への助走に過ぎない。グレンダー公は椅子に深く腰を沈め、静かに口を開いた。
「貴公もご存知の通り、アルスガードでは内部の権力争いが激化しています」
淡々とした声だったが、その背後にある政治的意図を探るべく、テオバルトは無言で彼を見据えた。
アルスガード公国は北方連合の中心として君臨してきた。広大な領土と豊かな鉱脈、そして圧倒的な軍事力を背景に、周辺諸国への影響力を保持し続けている。
その実質的な支配者の座を巡り、マグヌス公率いる軍事強硬派とグレンダー公の穏健派が、長年に渡って火花を散らしてきた。
「ヴォルフラムはマグヌス公の駒に過ぎません。彼らの無理な要求も、すべて強硬派の意向です。今ここで対立を深めることが彼らの狙いなのです」
テオバルトは無表情を保ちながら、その言葉の重みを計る。
「外務卿殿。我々も、あの男の振る舞いには困惑しております」
老公の声は丁寧でありながら、どこか説得を迫るような力強さを帯びていた。
「彼の態度は、単なる強硬派の意向というには、何か別の感情が見え隠れしすぎる」
その言葉に、テオバルトはわずかに目を細めた。確かに、ヴォルフラムの執拗な態度には、ただの政治的圧力とは違う何かを感じていた。
実際、彼がラウレンティア国内で行っている不正行為については、軍部の協力も得て証拠を押さえている。だがそれは今は切り札として温存すべきもの。グレンダー公もその存在を察しているはずだ。
「あの男が退けば、私の一族から、より穏健な人物を送り込むことをお約束いたしましょう」
表向きは提案でありながら、その実、助力を求める言葉だった。テオバルトは老公の言葉を静かに受け止めながら、自身の手は明かさないように慎重に言葉を選ぶ。
「あまり性急な変化は、却って混乱を招くことにもなりかねません」
「仰る通りです」
一旦言葉を切り、グレンダー公はやや間を置いてから続ける。
「ただ、現状が長引けば長引くほど、強硬派の暴走を止められなくなる。それは貴国にとっても決して望ましいことではないでしょう」
その言葉には、北方の実情を知る者としての確かな重みがあった。
「外務卿殿は、あの国境戦で指揮を執られましたな」
突然の話題の転換に、テオバルトは一瞬だけ目を見開いた。あの戦場の記憶——乾いた土の匂い、銃火の音、そして耳元で響いた戦友たちの叫び声——すべてが鮮やかに蘇る。
北方国境を護る部隊に配属された若き日のテオバルトは、北方連合軍の侵攻を受け、自らの指揮で最小限の被害でこれを退けた。功績は認められ大尉に昇進したが、その栄誉の陰で、守れなかった者たちの命の重みが静かにのしかかっていた。
地面に倒れた戦友たちの目が、未だ夢の中で彼を責め立てる夜がある。最小限の被害で——その言葉が、どれほど自分を慰めてくれるだろうか。
テオバルトは小さく息を吐き、冷静さを取り戻そうとするようにグレンダー公を見据えた。
軍を去った理由の一つ。それは、あの戦場で確信した、自分には持ち得ないもの——戦場を本能的に支配し、周囲に絶対的な信頼を抱かせる力だった。
(私は戦場の指揮官にはなれなかった。だから、違う道を選んだのだ)
そう言い聞かせるように、テオバルトは目の前の老公をじっと見据えた。
「あの戦いでの、あなたの采配は見事なものでした。しかし事実上の敗北により、一族の名誉を失い、国内での立場が揺らぎかけた人物がおります」
テオバルトは視線を逸らさず、彼の言葉の真意を測った。
ヴォルフラムの交渉態度には以前からどこか歪んだ不安定さを感じていた。相手を追い詰めようとする狡猾さと、子供じみた癇癪を繰り返すその姿勢は、単なる強硬派の圧力を受けたものだと考えていた。だが、もしそれが彼自身の憎悪から来るものだとしたら。
無意味な嫌味や度を超えた駆け引きの裏側に、あの戦場で生じた個人的な感情が絡んでいるとすれば、思いのほか厄介なことではある。
(あの男は、己の感情のために戦っているのか)
テオバルトの胸にわずかな怒りが芽生える。だが、その感情を表に出すことなく、テオバルトは冷静な口調で問い返した。
「つまり、私怨だと?」
グレンダー公のわずかな頷きが、テオバルトの胸に渦巻く冷たい怒りをさらに深めた。
(感情を優先する交渉者ほど厄介なものはない)
ヴォルフラムと建設的な交渉ができる可能性は、もはや皆無だ。
「追い詰められた人間は時として理性を失います。特に、相手の弱点が見えた時には」
テオバルトは微かに眉を動かしたが、すぐにその表情を無に戻した。グレンダー公は続ける。
「ご婚約の噂は、私の耳にも届いております。——喜ばしいことではありますが、その分、目立つお立場になるのもまた事実ですな」
言葉の調子は穏やかで、あたかも祝意を表しているようにも聞こえる。しかし、その瞳の奥には冷静な計算と、どこか試すような色が見え隠れしていた。
「恐れ入ります。閣下に祝意をいただけるとは光栄です」
「私は明日には国に戻ります。今後の連絡は、使節団のエーリヒ・ヴァイスを通じて。彼は私の信頼のおける部下です。何かございましたら……」
その言葉の意味もテオバルトは十分に理解していた。これは単なる挨拶ではない。北方の権力者が自ら差し出した、確かな連絡手段の提示だった。
グレンダー公爵は21話に登場したお爺ちゃんです。




