第四十五話 二人を結ぶ黄金
馬車の窓からは、穏やかな午後の日差しが差し込み、柔らかな光が車内を包んでいる。窓の外では先程まで歩いていた街並みが流れていく。楽しかった時間が、心にじんわりと染み渡るようだった。
「もう少しあなたにこの街を案内したかったのですが、どうしても外せない予定がありまして。中途半端な時間に帰ることになって申し訳ありません」
向かいから届くテオバルトの声に、オフィーリアは慌てて景色を眺めていた視線を戻した。
「いいえ、そんなこと。お忙しい日にわざわざお時間を作ってくださって、ありがとうございました」
多忙な彼がこの時間を作るのは、決して簡単なことではなかったはすだ。それでも、昨日の自分を気遣って、こうして時間を割いてくれたのだと思うと、胸がじんわりと温かくなる。
「本当に――こんなに素敵な日になるとは思いませんでした」
オフィーリアの声は、まだ少し弾んでいる。その言葉を受けて、テオバルトも穏やかな笑みを浮かべた。
「私もです。あなたが笑ってくださるだけで、十分に素晴らしい一日でした」
その声には、寄り添うような優しさが滲んでいる。オフィーリアは胸の奥がそっと温かさで満たされるのを感じた。けれど、その心地よさが、不意に疲れを思い出させる。
思えば、こんなにたくさん歩いたのは本当に久しぶりだった。早めの帰宅をテオバルトは詫びるけれど、オフィーリアの体力もそろそろ限界に近かった。馬車の揺れに身を委ねているうち、次第に瞼が重たくなり、意識が揺れ始める。
気付けば、体がふっと傾きかける。驚いて僅かに目を開けると、いつの間にか正面に座っていたはずのテオバルトがすぐ隣にいる。肩に温かな手が添えられ、その琥珀色の瞳が慈しむように自分を見つめている。
まるでお日さまのような、綺麗な色。それはオフィーリアの宝物と同じ色をしている。なにもかもすべて失った時、この手のなかに最後まで残った唯一の物。どうして今、その言葉が浮かんだのだろう――不思議な感覚が胸の奥でゆっくりと広がる
「疲れさせてしまいましたね」
低い声が優しく耳元を撫でる。その声には、どんな心配も全て受け止めてくれるような穏やかさがあった。オフィーリアは無意識のうちに力を抜き、そっとテオバルトに体を預ける。
その胸に頬を寄せると、ふわりと控えめな香りが包み込んできた。乾いたインクと柑橘の香り――彼の知的で落ち着いた存在そのものを象徴するかのよう。
「おやすみなさい、リア」
囁かれたその言葉が、静かに心をほどいていく。こんなふうに寄り添える温もりを、自分はどれほど求めていたのだろう。答えを探す間もなく、安らぎが全身に広がっていく。
その時、静かな、小さな歌声が耳に届いた。それはあのオルゴールの歌――どこか懐かしい旋律。その音色が胸の奥にある記憶の扉をそっと叩くようだった。
心地よい疲労と安心感に包まれながら、テオバルトのの歌声がそっと一日の思い出を包み込むように響く。オフィーリアの意識は、その優しい調べに導かれるように、ゆっくりと柔らかな夢の世界へと沈んでいった。
◇
穏やかな午後の日差しが建物の窓から差し込み、外務省のエントランスを柔らかく照らしていた。
街歩きのひととき、その名残が胸の中にまだほのかに残る中、テオバルトは足を進める。今しがたまで隣にあったオフィーリアの微笑みが脳裏をよぎり、不意に唇が柔らかく綻んだ。
しかし、それも一瞬のこと。足を踏み入れた外務省の冷えた空気が、意識を現実へと引き戻した。穏やかな時間はもう遠く、ここでは次々と押し寄せる問題に向き合う外務卿がいるのみだった。
その現実を象徴するかのように、テオバルトの視界に現れたのはヴォルフラム・リンドベリだった。
金糸で縁取られた北方風の上着は相変わらず派手で、周囲から浮いているよう。廊下の壁に寄りかかる姿には苛立ちと小僧が見え隠れするが、彼はテオバルトを見つけると大股で近付いてきた。
「外務卿、ようやくお姿を拝見しましたよ。最近はずいぶんお忙しいようで、こちらとの話し合いにもあまりお顔を出されないとか」
がなるような声が廊下に響き、周囲の職員たちが気まずそうに視線を逸らす。
「必要があればいつでもお会いしています。進捗については逐一報告を受けておりますので、ご心配には及びません」
テオバルトは相手の言葉に怯むこともなく、平然と答えた。言葉の柔らかさとは裏腹に、そこには一切の隙もない。足を止めることなく中央階段へ進めば、ヴォルフラムはその後を付いてくる。
「進捗とはまた、ありがたいお言葉ですね。もっとも――」
わざとらしく言葉を切り、ヴォルフラムは口角を少し上げる。
「屋敷でお待ちの方がおられるとなれば、早く帰られるのも無理はない」
その言葉に、階段を上りかけていたテオバルトの足が止まった。
周囲の職員たちがそれぞれ忙しそうに行き交っているものの、耳を傾けている気配を感じる。
「帰宅時間までご心配いただけるとは、北方使節団の繊細な配慮に感謝いたします」
一切の表情を変えず、声だけを柔らかく響かせる。その抑えた態度に、ヴォルフラムの目が鋭くなる。
「お気を悪くされたなら謝罪しますよ。ただ、婚約の噂を耳にしたものでね。さぞ素晴らしいお相手なのでしょうな」
テオバルトの瞳にほんの一瞬だけ冷たさが宿る。だがすぐに消え去り、穏やかな声が返された。
「ヴォルフラム殿。公務には一切関係のない話ですので、お気遣いには及びません。しかし噂話に興じる余裕があるとは、北方も随分と平穏なようですね」
階段を二段上がり、わずかに見下ろすような位置に立つ。その姿勢は、意図せず二人の力関係を象徴しているかのようだった。ヴォルフラムの歪む表情に、テオバルトは内心で冷ややかな感情が湧くのを感じる。
年齢は四十前後だろうか。その年齢になってなお積み上げたものは何もなく、ただ己の権勢を誇示することに躍起になっている。発する言葉は嫌味と虚勢ばかり――時間を重ねただけの空疎な男に、価値を見出すことはできなかった。
政務室の扉を開ければ、職員たちの視線が一斉にこちらを向く。
「交渉の件でご用件があるのでしたら、担当者が引き続き対応いたします。どうぞお任せください」
それだけ告げて、テオバルトはそっと目配せを送る。すぐに職員の一人が近づき、ヴォルフラムに声をかけた。
「ヴォルフラム卿、こちらでお話を伺いますので……」
不満げな表情を浮かべながらも、ヴォルフラムは案内役の職員に従い、背を向けた。
ヴォルフラムが去ると、テオバルトは小さく息を吐く。そのとき、すれ違いざまに聞こえる声があった。
「またあの男が来たのか……」
外務省へ窓口を移すことを決めた身として、職員たちに負担をかけるのは苦しい。だが、これも必要な駆け引きだった。
表向きの要求は、まるで餌のように並べられている。「関税の引き下げ」「管理権の共有」「北方商品の優先権」――どれもラウレンティアの主権を脅かしかねない内容ばかりだ。
(北方連合の本当の狙いは、もっと根深いところにある)
連合に加盟していない国家の存在は、彼らにとって目障りなのだろう。かつて見下していた国が、今や物流の中心地として各国の注目を浴びている。それが我慢ならないのだ。
「これまで通りの対応でよろしいでしょうか」
「それで構いません。余計な情報は与えないようにしてください」
テオバルトの淡々とした指示の裏には冷静な計算が潜んでいた。ヴォルフラムを相手にしないのは単なる軽蔑からではない。彼らが長引く交渉の末に、軍事介入の口実を作ろうとしているのは明白だった。ヴォルフラムはその命令を遂行する駒にすぎない。否、あえて駒を名乗ることで、その矮小な姿勢の裏に野心を隠しているのかもしれない。
「騒がせて申し訳ありません。各自、職務に戻ってください」
テオバルトの言葉に職員たちが一斉に頭を下げ、再びそれぞれの作業に戻る。
ヴォルフラムが連れて行かれる様子を視界の端で確認しながら、テオバルトは静かに息を吐いた。婚約の噂が広まるのは想定内だ。まだオフィーリアの名前までは知られていない。今はそれで十分でも、いつまでも隠してはおけない。その時が来るまでの布石を、慎重に打っていくべきだった。
自分の執務室へ赴けば、机の上には不在の間に届けられた書類が無造作に積まれていた。テオバルトはそれに手を伸ばすと、冷静な目で一つ一つの書類を確認し始める。次々と迫る問題に、外務卿としての自分が応じるべき時はすでに訪れている。
そのとき、不意に執務室の扉が静かに開かれ、現れたのは見覚えのある男――新たな局面の到来を告げるような存在だった。




