第四十四話 歌を忘れた舞台
テオバルトは一瞬身を固くしたが、それは杞憂だった。支配人と名乗る男の目には純粋な尊敬の色が浮かび、その声には懐かしむような温かみが滲んでいる。それがすぐにもオフィーリアを傷付けるものではないと悟り、テオバルトは緊張を緩めた。
「……覚えていてくださったのですね」
オフィーリアの瞳が、驚きと少しの喜びに揺れる。その言葉に支配人は感激した様子で大きく頷いた。
「もちろんですとも! 改装後のこの劇場があるのも、あの日のあなたの歌がきっかけでした!」
「そう仰ってくださるなんて……ありがとうございます」
「あの日の歌声が、どれほど人々に感動を与えたか……今でもこの劇場の歴史の中で語り継がれています! あの公演は、まさに奇跡でした‼︎」
支配人の言葉を聞きながら微かな笑みを浮かべるオフィーリアのその笑みが本当に心からのものなのか、それとも無理に作られたものなのか……テオバルトは見極めようとするように、微かに目を細める。
支配人の熱烈な賛辞を聞きながら、テオバルトの胸に去来するのは複雑な思い。
(あの歌声を絶賛することは簡単だ。しかしリアがその後どう苦しみ、何を失ったかを知る者はどれだけいるだろう)
支配人は当然それを知る由もない。だからこそ、その言葉には純粋さが宿っている。それを理解しつつも、彼女の痛みを知る自分には、その真っ直ぐな言葉がどこか棘のように刺さった。
オフィーリアはどこか戸惑いを抱えているように見えた。しかし、その表情に嫌悪や拒絶は感じられない。かつて自分が楽譜に残した言葉に、彼女が微かな喜びを見せてくれたように。
(満更でもないらしい。それなら、今は黙らせる必要はない)
テオバルトは支配人を遮るつもりで開きかけた口を閉じた。過去の輝きが今の彼女自身を傷付けることがないのなら、このまま彼の話を続けさせてもいいだろう。
ふと支配人がテオバルトに目を向け、その表情に驚きが浮かぶ。
「失礼ですが……もしやシュルテンハイム侯爵閣下でいらっしゃいますか?」
「その通りです」
軽く頷いてそう答えるテオバルトに、支配人は恐縮したように頭を下げた。
「まさか……こんなところでお目にかかれるとは。しかもオフィーリア様とご一緒とは……これはまた……」
テオバルトは笑みを崩さず、その声に控えめな警告の色を乗せた。
「個人的な用事で参りました。どうぞ詮索はご容赦ください」
その言葉に支配人は慌てて首を振る。
「も、申し訳ありません! 余計な詮索は致しません。ただ、改めてお礼申し上げます。この劇場も、北方交易路の発展による賑わいのおかげで、こうして人々を迎えることができております」
「それは何よりです」
支配人は劇場の正面扉を振り返りながら、どこか感慨深げに続けた。
「改装後、この劇場はさらに多くの人々を迎えることができるようになりました。内部も大きく変わりまして、舞台設備は最新式となり、装飾も一新されております」
オフィーリアの視線が自然とその扉に向けられる。その瞳に浮かぶ興味を見逃さなかった支配人は、親しげな笑みを浮かべながら一歩近づいた。
「もしよろしければ、中をご覧になりませんか? 本日の公演はありませんので、静かな劇場をゆっくりとご案内できます」
その申し出に、オフィーリアは一瞬迷ったようにテオバルトを見上げた。だが、その目には確かな興味が滲んでいる。
「まだ時間に余裕はあります。案内していただいてもよろしいのでは?」
その一言にオフィーリアは少しだけ表情を緩め、支配人に向き直った。
「それでは、お願いできますか?」
支配人は嬉しそうに頭を下げる。
「どうぞ、こちらへ。——ご案内いたします」
◇
オフィーリアはテオバルトと共に、ゆっくりと劇場の中を歩いていた。
豪華な彫刻が壁を彩り、天井から降り注ぐ光が静かな威厳を湛えている。かつての記憶とは異なる優美さに、オフィーリアは目を奪われる。
記憶にある劇場は華やかではあったが、どこか質素で暖かみを感じさせるものだった。今の劇場はその記憶を超えるほど美しく、完成された姿を見せている。それでも、不思議と違和感はなかった。
「オフィーリア様、あの日のことは今でも覚えています。劇場が埋め尽くされ、外にまで人々があふれたあの夜——あなたが歌い始めた瞬間、誰もが息を飲んだんです。私は今でも忘れることができずにおります」
先頭を歩き劇場内の案内をしながらも、支配人の賛辞はいつまでもその熱を失うことがなかった。
「改装後、この舞台はさらに広くなりました。でも、あの夜の熱気を再現することはできません。それほどまでに、あなた様の歌声は特別だったのです!」
(……今でも、こんなふうに思ってくれる方がいるのね)
表舞台から去って二年。それだけの時間があれば人の興味や関心は別のものに移ってもおかしくない。それでもまだ、かつての歌がまだ誰かの心に残っていたという事実が、静かにオフィーリアの胸を満たしていく。
オフィーリアは支配人に礼を述べると、ふと隣に立つテオバルトへ目を向けた。彼は表情を変えず、ただ静かに支配人の話を聞いていた。琥珀色の瞳は真っ直ぐに支配人を見つめ、どんな些細な言葉も逃さないというように鋭い光を宿している。
その横顔は凛々しく、近寄りがたいほどの威厳を纏っているけれど、そこに確かに優しさが隠れていることをもう知っていた。
(——先程の姿も、とても……素敵だった)
劇場の前で、支配人が駆け寄ってきたあの時。オフィーリアを背に庇うようにして立つ迷いのない動きは、それが彼にとって自然な行為であることを示すようで。その堂々とした姿にオフィーリアは一瞬、心を奪われた。
支配人が熱心に言葉を続けている。けれどオフィーリアの意識はどこか隣に立つテオバルトの存在に引き寄せられていた。どんな状況でも迷いなく自分を守ろうとする人——その隣にいられる自分が今はただ、幸せでならなかった。
「よろしければ、どうぞ舞台に上がってみてください」
その言葉に、オフィーリアの意識は瞬きと共に引き戻された。促されるまま、支配人が示した舞台を見上げる。磨き上げられた床板は、まるで過去を映す鏡のよう。
テオバルトがそっと、静かな視線を向けてくる。その瞳には言葉にしない優しさと励ましを含んでいるように見える。その視線に背中を押されるように、オフィーリアはそっと一歩を踏み出した。
「……それでは、少しだけ」
支配人の手を借りて、オフィーリアは舞台に上がる。天井から差し込む光が包み込まれると、懐かしさと共に胸が満たされていく。まるでかつての自分がそこにいて、静かに問いかけているよう。
目の前に広がる客席の風景——誰もいない静かな劇場の中、それでも同時の熱気や拍手が胸の奥で蘇る。
その一方で、声を失った今の自分がこの舞台に立つことにわずかな抵抗も覚える。
(もしまた、歌えるようになったら……)
そこに眠る音を探すように、喉元にそっと指を当てる。未だに戻らない歌。心の中にある迷路の出口は、まだ見えそうになかった。
やがてオフィーリアは息を整え、舞台袖への一歩を踏み出す。そこで待つテオバルトの眼差しはいつもと変わらず優しく、静かにこちらを見守っている。
「どうでしたか?」
その言葉は柔らかく、けれどその中に自分を案じる気持ちが滲んでいるのがわかる。オフィーリアは少し戸惑いながらも微笑んだ。
「懐かしい気持ちになりました。でも……今はまだ……」
声に出した途端、胸がきゅっと締め付けられるようだった。過去の自分を追い求めていいのか、それとも新しい自分を見つけるべきなのか——その答えが、まだ出せない。
「焦らずに、少しずつで良いのです。今、すべての答えを出す必要はありません」
「……ありがとうございます」
「オフィーリア様」
少し離れたところで二人の様子を見ていた支配人が、遠慮がちに声をかけてくる。
「突然お姿をお見かけしなくなったので、どうされているのかと思っておりました。……今はもう歌われていないのでしょうか?」
その言葉に、オフィーリアは一瞬息を詰めた。歌えなくなったという現実——それを誰にも知られたくない。けれど、目の前の支配人が向ける期待の目を裏切りたくもない気持ちも同じくらい強かった。二つの感情が心の中でせめぎ合い、口をひらこうとするも、声が出ない。
その時、テオバルトの手がそっと背中に触れた。その触れ方はあまりにも自然で、けれど彼の意思がしっかり伝わってくるもので。オフィーリアは驚きに目を瞬かせる。
「彼女は今、この国で新たな学びを重ねているところです」
テオバルトの声が穏やかに響く。その落ち着いた口調は支配人を説得するだけでなく、隣にいるオフィーリアの心までも静かに包み込んでいく。その自信に満ちた声は、まるでオフィーリアの心の揺らぎを見透かしているかのようだった。
「歌うことを通じて多くのことを学びましたが、今はそれだけではなく、さまざまな分野に目を向けているのです」
支配人はその言葉に、納得したように頷いた。
「なるほど。新たな挑戦をされているのですね」
「ええ。その結果が身を結ぶ日を、私も楽しみにしているところです」
テオバルトの口元には、微かに柔らかな笑みが浮かんでいる。それはただ表向きの言葉ではなく、彼自信が心からそう思っていることを伝えていた。
そのやりとりを聞きながら、オフィーリアは顔を上げた。テオバルトの言葉の一つ一つが、胸の奥に暖かな灯をともしていくのを感じる。いつも彼はこうして、自分を守りながら新たな勇気を与えてくれる。
——不安も迷いも、私の一部。
——否定しなくてもいい。
その言葉は、過去を受け止めるための道標のようにオフィーリアを導いていた。自分の中で温め目ていた感情が、気付けば声となって溢れ出す。
「歌うことは……私にとって、とても大切なものです。これからも、自分なりの形で音楽と向き合っていきたいと思っています」
その声は不思議なほど穏やかで、心の奥から湧き出る確かな気持ちを伴うものだった。
テオバルトにそっと目を向けると、琥珀色の瞳が静かに見つめ返してくる。その中には、ただ見守るだけではない深い信頼と期待が宿っているのを、オフィーリアは静かに感じ取った。
「それは素晴らしいことです。またいつかお姿を拝見できる日を心待ちにしております!」
支配人の笑顔に、オフィーリアは静かに微笑み返した。
「本日はありがとうございました。また近いうちにお邪魔させていただきます」
テオバルトが穏やかに告げると、支配人は深々と頭を下げ、二人を見送った。
劇場を後にし、大通りへと出ると、柔らかな日差しが街並みを明るく照らしていた。まだ夕暮れには早い時間帯、街の喧騒もどこか緩やかに感じられる。オフィーリアはふと足を止め、周囲を見回した。何気なく伸ばした視線が、広場の噴水の向こうに広がる市場や、通りを行き交う人々の姿に留まる。
テオバルトを見上げると、彼もまたこちらを見ていた。その静かな眼差しを受けて、オフィーリアは少し微笑む。
「……そろそろ、時間ですよね」
その言葉には、どこか名残惜しさが混じっている。この数時間がどれほど楽しかったか、胸の奥でじんわりと温かさが広がる。
「そうですね」
テオバルトが柔らかく応じる。その声に、オフィーリアはほっとするような安心感を覚えた。きっと彼も、同じように楽しい時間を過ごしてくれたのだろうと信じたくなる。




