第四十三話 光の在処
喫茶店を出ると、昼下がりの日差しの眩しさにテオバルトは目を細めた。青空は高く澄み渡り、太陽は少し傾き始めていたものの、まだ街並みを鮮やかに照らしている。柔らかな風が通り抜け、穏やかな空気が街全体を包んでいるようだった。
手にした日傘を軽く持ち直し、隣を歩くオフィーリアに目を向けた。彼女はふと足を止め、小さな店先に並べられた花束を眺めている。無邪気な横顔に、テオバルトの足も自然と止まった。
(——リアは、今どんなことを考えているのだろう)
彼女の視線の先を追いながら、自分の足元に目を落とした。石畳に映る影が揺れるのを見つめながら、先ほどの自分の発言を思い返す。彼女の瞳は、自分を完全に信じているように見えた。
(本当に、私は立派だと言える人間なのだろうか)
昨夜『足りないと思わなくていい』と告げた自分が、今はその言葉に縛られている。オフィーリアに向けた言葉が、まるで鏡のように自分を映し出す。その皮肉が、胸の奥を締め付けた。
侯爵位も外務卿という地位も、本来なら固辞するはずだった。それはこの身に余る重責だと今でも思っている。だが、どうしても必要だった。エステリエの王に歌姫の下賜を願い出るために。この国で、オフィーリアを守るために。
今の立場に相応しい働きをし続けなければ、周囲の期待に応えなければ——その責任感が、これまで休むことを許さなかった。公務があれば外務省の仕事を、公務がなければ領地の仕事を。誰かに任せることもあったが、結局最後に判断を下すのは自分の責務だ。
しかし最近、その生活が少しずつ変わってきている。仕事に追われるのは変わらない。けれどオフィーリアと過ごす時間を確保しようと考えた時、自然と仕事の進め方を見直すようになった。優先順位を厳密に定め、部下に任せられるものは委ね、無駄な手続きを省く。結果として仕事量は変わらないのに以前より効率的に回るようになった。毎日でなくとも夕食や夜の時間を屋敷で過ごすことが、ごく自然な日常になりつつある。
今日のように半日だけでも休暇を取る——数ヶ月前の自分には考えられなかったことだ。だが、彼女と過ごす時間を作るために取った選択が、意外にも自分の働き方を変えるきっかけになっていた。
ただ働き続けることが、責任を果たすことだと思い込んでいた。休むことは、どこか後ろめたさを感じる行為だった。だが本当は、もっと違う在り方があったのかもしれない。
その時、ふとオフィーリアの声が聞こえた。
「ねぇテオバルト様。この花、とても綺麗だと思いませんか?」
彼女が見ていたのは、小さな籠に入れられた可愛らしい花束だった。白と紫の花がふんわりと束ねられ、控えめながらも可憐な魅力を放っていた。
「買っていきますか?」
「いいえ、見るだけで十分です。でも……なんだか心が軽くなるような気がします」
日傘が作る影の中で、それでも青灰色の瞳は美しく輝いている。
「……あなたは、どんな花が好きですか?」
以前されたのと同じ質問を投げると、オフィーリアは少し考えてから、静かに微笑む。
「朝の光を浴びた花が好きです。特別な色ではなくても、その瞬間だけはどの花も輝いていて、とても綺麗に見えますから」
テオバルトはその答えに一瞬、答えを失った。白でも、赤でもなく、朝の光に照らされた花。彼女らしいと思った。夜の闇を知る彼女が、それでも朝を好む。色ではなく、光を浴びるその瞬間に価値を見出すのは——まるでオフィーリア自身の姿と重なるようだった。
彼女はかつて長く閉ざされた場所にいた。その中で色を持たず、ただ息を潜めていた時間を思うと、その答えがどれほどの意味を持つのかを塑像せずにはいられない。
「素敵な考えです。とても、あなたらしい」
オフィーリアは笑みを深め、再び歩き始めた。テオバルトは一瞬だけその後ろ姿を見つめてから、静かにその隣へと足を揃えた。
どんな色であろうと美しく見えるのなら——この先、彼女がどんな道を選ぼうと、きっとそれは輝くのだろう。そして、それを守るのが自分の役目なのだと、改めて心に誓った。
◇
街を抜け、少し広い通りに差し掛かった時、視線の先に荘厳な建物が見えてきた。壮麗な彫刻で飾られた正面玄関、その上には威厳を感じさせる大時計が設置されている。
アーデンブルグで最も古い歴史を持つ大劇場——オフィーリアは吸い寄せられるように数歩、歩んだ。
「ここで、一度だけ……歌ったことがあります」
その言葉がかつて耳にした歌声を結び付き、テオバルトの胸の奥に小さな波紋を広げていく。テオバルトはそっと目を閉じた。記憶の中に鮮やかに蘇る情景——観客席の片隅で聴いた特別な歌声。まるで光が差し込むように、会場全体を包み込んだその瞬間。
(あなたの歌が——あなたの存在そのものが、私に新しい道を示してくれた)
しかし、テオバルトはその想いを胸の奥に留め、言葉にはしなかった。彼女の過去を讃えることが、今の彼女を否定することになるかもしれない——その可能性が、どうしても口を閉ざさせる。
隣で劇場を見上げる彼女の横顔は、舞台に立っていた当時の輝きとはまた異なる、穏やかさと柔らかさを帯びていた。
「そうでしたか」
冷静を装うテオバルトの声に、オフィーリアは小さく頷く。
「陛下がラウレンティアへ招かれた時、私も同伴することになって……そこで是非にと言われて、ここで、歌いました」
オフィーリアは劇場をじっと見つめたまま、テオバルトに対してというよりはどこか遠い記憶を辿るようにして話しはじめる。その声には微かな緊張が滲み、瞳には、記憶の中の光景が映っているようだった。
「私は十四歳で、不安でいっぱいで……でも、歌い始めたらそんなのも忘れてしまって……皆さんがとても温かく拍手を送ってくださって……。あの時の景色は、今でもよく覚えています」
彼女が自分の過去を語るのはこれが初めてのことだ。痛みをそのまま抱えながらも、それに背を向けるのではなく、真正面から見つめようとしている。その強さに、テオバルトは胸を打たれる思いがした。
その時——劇場の扉が開き、一人の男が小走りにこちらへ向かってきた。
男が慌てた足音を立てながら駆け寄ってきた瞬間、テオバルトは即座にオフィーリアの前に立つ。その動きには躊躇いがなく、自然だった。
「どなたでしょうか?」
静かながらも低く響く声で問いかける。その姿に男は一瞬怯んだように見えたが、すぐに姿勢を立て直し、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません、無礼をお許しください! 私はこの大劇場の支配人でございます。もし私の記憶が確かなら——あなたは銀月の歌姫——オフィーリア様ではありませんか?」
その言葉に、テオバルトは鋭く目を細めた。




