第四十二話 触れたい心
案内された喫茶店はそこからすぐの場所にひっそりと佇んでいた。白壁に蔦が絡む外観はどこか素朴で、控えめな看板が上品さを醸し出している。
扉を開けた瞬間、優しい光と花の香りが二人を包み込む。木の温もりを感じる内装は書斎のような落ち着きを湛えていて、自然と緊張が解けていく。
案内されたのは奥まった席で、他の客たちの談笑もここまでは届かない。
オフィーリアの目の前に置かれた皿には、淡い色合いのクリームが美しく絞られたケーキが乗っていた。その隣には、温かな湯気を立てる紅茶。ふわりと漂う香りが、どこかほっとする安らぎを感じさせる。
一方でテオバルトの前には、珈琲と、茶色っぽい色合いの四角いケーキが控えめに鎮座している。その上にクリームや果物は一切なく、飾り気のない姿をしている。ケーキというよりパンのようだった。
「……それもケーキなのですか?」
「ええ。香辛料を使ったケーキです。少し独特な風合いですが、なかなか味わい深いですよ」
その説明を聞いて、オフィーリアは目を丸くした。市場で見た赤や黄色の香辛料が、この素朴なケーキとどう結びつくのか、全く想像がつかない。
「よろしければ、少し召し上がってみてください」
笑みを深めたテオバルトがケーキを一口切り取って、オフィーリアの皿に置いた。
少し戸惑いながらも興味深そうに、オフィーリアは慎重にケーキを口に運ぶ。ほんのりと甘い生地の中に、複雑で芳醇な香りが広がり、思わず考え込むように口を動かす。
「……不思議な味です。でも、嫌いではありません」
言葉を選びながらそう答えると、それが伝わったのかテオバルトは目を細め、小さく笑った。
「それは良かった。料理にも菓子にも、香辛料の使い方には無限の可能性がありますね」
その言葉にオフィーリアもつられて微笑み、自分のケーキにフォークを入れる。上品な甘さとクリームの優しい味わいが口いっぱいに広がり、思わず頬が緩む。どちらかといえばやはり、甘いほうが好きだ。
紅茶の湯気が柔らかく漂う静かな空気の中、テオバルトは穏やかな声で言った。
「このように仕事以外の時間を過ごすのは……随分久しぶりですね」
オフィーリアは少し驚いたように目を瞬かせた。
「いつもお忙しい印象ですけれど……お休みの日などは、どのようにお過ごしなのですか?」
ふと沸いた疑問をオフィーリアは問いかけた。最近のテオバルトは夕食に間に合うよう帰ってくることが増えた。しかし、彼が休暇を過ごしている姿を一度も見たことがない。
テオバルトは微かに笑みを浮かべながら首を横に振る。
「実を言うと、休むことが下手なんです。半日も完全に仕事から離れるのは、もしかすると初めてかもしれません」
その言葉に、オフィーリアは思わず息を呑んだ。たとえ彼が仕事を愛していたとしても、それは余りにも過酷ではないだろうか。
これまで自分のことばかりで、テオバルトがそうした生活をしていることを深く考えていなかった。そんな自分がひどく恥ずかしくなる。
「それでは……今日は、貴重なお休みを奪ってしまったのでは……」
「いいえ。こうしてあなたと過ごす時間は、私にとって本当の意味での休息なのです」
その言葉は嬉しいはずなのに、どこか切なさが混じる。今までずっと、誰かのために走り続けていた人。そんな彼の姿が、急に鮮明に見えた気がした。
「それでも……ずっと働き詰めというのは、大変ではありませんか? 外務省のお仕事はもちろんですが、交易路を作られるまでには、並々ならぬご苦労があったと伺いました」
テオバルトの穏やかな表情は変わらない。けれどその瞳の奥にほんの一瞬、影がよぎるのをオフィーリアは見逃さなかった。
「交易路は元々、外交官であった父の構想でした。私はそれを形にしただけです」
テオバルトの声は静かで、淡々としている。その謙虚な言葉の裏側に、何か重いものが隠されているのをオフィーリアは感じ取る。
市場で見た活気、人々の笑顔、その全ては彼の努力があってこそ。それなのに、まるでその功績を語ることを避けるように。
「そんな……でも、あれほどの大事業を完成させたのは、テオバルト様のご尽力があったからこそでは……」
「環境に恵まれていただけですよ。軍部から外務省に移ったのも、父や上官の推薦があったからです」
推薦を得られたのも、軍部での働きが評価されたからこそではないのだろうか。
テオバルトの言葉は控えめだったが、その中には断固とした意思が込められているようにも思えた。まるで、それ以上追及させまいとするかのように。
彼の言葉を否定するつもりはない。けれど北方交易路の整備がどれほど困難なものだったか、オフィーリアはもう知っている。
各国の利害関係を調整し、国を跨いで交渉を重ね、時には対立も乗り越えながら実現させた。それは、ただ与えられた環境だけを理由に成し遂げられるものではないはずだ。
(どうして……)
昨夜も今朝も、自分の全てを受け入れると言ってくれた人。オフィーリアの価値は見出してくれるのに、自身の功績となると、まるで遠避けるように頑なで。その違和感が、昨夜の記憶と重なって胸を締め付けた。
彼の謙虚さは尊敬に値するものだ。しかしその言葉の端々から、何かもっと深い理由があるのではないかと感じてしまう。その理由を知りたいと思いながらも、問う勇気がなかった。
「それでも……構想を形にするだけだとしても、決して簡単なことではなかったはずです。テオバルト様はご立派な方だと、私は思います」
「あなたがそう思ってくださるのは、ありがたいことです」
いつもと変わらない穏やかな声。けれど、どこか壁を感じる。それ以上を語るつもりがないことがオフィーリアにもわかった。
(……なぜこんなにも、ご自分を否定されるのかしら)
それから昨夜の自分の言動を思い出して、思わず苦笑する。あんなにも激しく感情をぶつけてしまった自分がこんなことを考えるのはおかしいかもしれない。
まだ、彼の心の奥底に触れることは許されていないのだろう。そう思うと、胸の奥にひっそりと寂しさが沈んでいくのを感じた。
けれど、それも無理のないことかもしれない。冬を終え、季節は春から夏へと移ろうとしている。彼と知り合ってから、まだ数ヶ月しか経っていないのだから。
「これからもっとテオバルト様のことを知っていきたいです」
そんな言葉が、気づけば自然と口をついていた。テオバルトの琥珀色の瞳がわずかに揺れる。驚きとも、戸惑いともつかぬ光が、一瞬だけその瞳に宿った。
「だって私、テオバルト様の婚約者なんですもの」




