第四十一話 旋律の余韻
市場の一角で再びオフィーリアは足を止めた。視線の先には素朴だが洗練されたデザインの指輪や髪飾りが並び、嵌め込まれた輝石が陽光を浴びて輝いている。
あまり積極的に着飾ろうとする性格ではないものの、綺麗なものを見るのは好きだ。その中で自然と自然と、指輪に目が向く。
「気になるものがあれば、試してみてはいかがですか?」
隣に立つテオバルトが言う。その一言に、オフィーリアは少し驚いたように顔を上げる。何も欲しくて眺めていたわけではないのだが、すかさず、店主らしい若い男が笑顔で声をかけてくる。巨大な市場というだけあって、どの店の店主も商売熱心だ。
「試すだけなら自由ですよ。どうぞ遠慮なさらず。こちらはお若いご婦人には特に人気がありまして、きっとお似合いになると思います」
戸惑いながらも店主が勧めるままに、オフィーリアは透明な輝石が嵌め込まれた指輪をそっと手に取る。
細い指に、冷たい金属の感触が優しく寄り添う。光を受けて輝く小さな石は清らかな輝きを湛んでいた。
「まあ……すごく素敵です。でも、似合うかしら」
不安げに指を眺めるオフィーリアに、テオバルトは静かに頷く。
「ええ、とてもお似合いです」
その言葉に、オフィーリアは恥ずかしそうに微笑んだ。
指輪を外して店主に返そうとしたとき、店主が話しかける。
「奥様、本当に良くお似合いですよ。旦那様もぜひ記念にいかがですか?」
その言葉にテオバルトは柔らかく微笑み、控えめに首を横に振る。
「どれも素晴らしい品です。ただ……彼女への贈り物にはもう少し特別なものを考えているので、またの機会にさせていただきます」
市場の賑やかさに包まれたまま、二人はゆっくりと通りを歩いた。
オフィーリアは、ふと振り返って指輪が並ぶ店を見やり、指先に残る指輪の感触を思い出していた。
(私に、もっと特別なものを……)
その言葉の奥に秘められた約束が、交わされた誓いと重なって、胸の奥で暖かく膨らんでいく。指先に残る指輪の感触がまるで未来への扉を示すように、微かに心を躍らせる。
隣を歩くテオバルトの顔を見ると相変わらず穏やかで、少し得意げにも見える表情が浮かんでいる。オフィーリアは無意識に左手の薬指を撫でた。いつかその場所に、あの輝きを宿す日がくることを祈るように。
市場をぐるりと一回りしたところで、二人はその喧騒を抜け、少し落ち着いた通りを歩いていた。立ち並ぶ店もどこか高級感を漂わせ、先程とはまた違う洗練された雰囲気が広がっている。
ふと、オフィーリアは近くのショーウィンドウに目を留めた。そこには美しい細工が施された木箱が並んでいる。蓋が開いたものから中の機械が見え、その精巧さにオフィーリアの目は釘付けになる。
「テオバルト様、これは——」
オフィーリアが声をかけると、テオバルトもその視線の先を見やる。
「オルゴールですね。ラウレンティアでも評判の工房です」
「聞いたことはありますが、実物を見るのは初めてです。音楽が……流れるんですよね?」
音楽——その言葉が胸を掠める。けれど今は、その痛みさえも懐かしく感じられた。小さな箱に秘められた音色への好奇心が、かつての自分を思い出させる。
「……中に入ってみても良いですか?」
おずおずと尋ねると、テオバルトは目を細めて微笑んだ。
「もちろんです」
そっと背中に回された手の温かさに励まされながら、オフィーリアは店内に足を踏み入れる。
店内は静かで、上品な香りが漂っている。壁沿いの棚には様々な形状のオルゴールが並び、それぞれが高級感を放っていた。
二人へ、上質そうな制服に身を包んだ店員が穏やかに声をかけた。
「ようこそ。当店はラウレンティアの伝統を守る工房の品を扱っております。どうぞお手に取ってご覧ください」
オフィーリアは緊張しながらも、丁寧に並べられた品々に目を向けた。形は四角いものから丸みを帯びたものまで様々だ。
筐体には金箔で精緻な花模様が描かれていたり、星の意匠が彫り込まれていたり、金属細工が施されているものもある。
その中で、オフィーリアの視線は自然とひとつに吸い寄せられた。深い飴色の木目が美しい長方形のオルゴール。蓋には目立つ装飾はないが緩やかな曲線が優雅で、どこか温かみがあった。
手に取ると、心地良い重量感が手のひらに伝わる。蓋を開けてみると、硝子越しに金の塗装が施された機械部分が輝いて見えた。その隣には深い紺色のベルベット張りの小物入れが控えめに配置されている。
時を超えてきたような旋律が、静かに空気を満たしていく。懐かしさと温かさが混ざり合った音色が凍てついていた心を少しずつ溶かしていくよう。
オフィーリアはそっと目を閉じた。瞼の裏で、音符が光の粒となって踊っている。その音色はどこか懐かしく、そして優しい。旋律が胸の奥に静かに染み渡るたび、心が穏やかに満たされていく。
(歌えなくても……音楽はこんなにも優しく寄り添ってくれるものなのね)
声を失ってから、こんなにも音楽を心地良く感じたのは初めてだった。まるで傷付いた心に寄り添うような静かな調べに、思わず感嘆の声が漏れる。
「……綺麗な曲……」
その声に、テオバルトは小さく微笑み、そっと隣に立った。
「この国で古くから親しまれている子守唄です。私も子供の頃に聞いたことがあります。私の家にもこの店のオルゴールがありました。……今は、もう手元にはありませんが」
少し遠い目をするテオバルトの横顔に、オフィーリアは静かに目を向ける。
彼は静かに身を寄せ、オルゴールに視線を落としながら穏やかな声で続けた。
「今日の記念に、このオルゴールをあなたに贈らせてください」
その声には昨夜の告白に似た、どこか慎重な温もりが滲んでる。
「そんな……! とても高価なものですし、私にはもったいないです」
テオバルトの言葉に、オフィーリアは驚きと喜びの混ざった表情で答える。しかし彼は穏やかに首を振る。
「記念品とは、その瞬間を思い出させてくれるものです。そして、あなたに喜んでいただけるのなら、それが一番の価値です」
彼の真剣な眼差しに、オフィーリアは少し戸惑いながらも、小さく頷いた。
「……ありがとうございます。大切にします」
その言葉に、テオバルトは満足そうに微笑む。
店を出た後も、胸の奥にはオルゴールの柔らかな旋律が残っていた。隣に立つテオバルトの顔をそっと見上げれば、彼もまたこちらを見ていた。視線が触れ合うたび、心がそっと波立つ。
「本当に、素敵な記念になりました」
改めて感謝を伝えると、テオバルトは笑みを深めた。
「この街歩きがあなたにとって楽しいひとときになったなら、嬉しい限りです」
その言葉に、オフィーリアは少しだけ顔を赤らめて微笑む。日傘が作り出す影の中、歩き出そうとしたオフィーリアを引き止めたのはテオバルトの声。
「たくさん歩きましたが、お疲れではありませんか?」
「いえ、私は——」
オフィーリアは驚いてそう言いかけたが、そういえば足が少し重くなっていることに気付く。久しぶりの長い散策のせいで疲労が足に溜まっているのはどうやら事実らしい。
それを察したのか、テオバルトは静かに微笑むと、通りの先を指差した。
「少し行ったところに喫茶店があります。休憩していきませんか?」
気遣いの伺える提案にオフィーリアは素直に頷いた。
テオバルトの隣に並び、そっと一歩を踏み出す。この街に響く音も、景色も、すべてが少しずつ心に馴染んでいく。それはとても心地良く、まるで音楽の調べがそっと寄り添うように、静かに胸の奥へと広がっていった。




