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第四十話 歩み寄る距離

「リア」


 背中に、そっと触れる優しい感触があった。テオバルトが、まるで「大丈夫だ」と伝えるように背中に手を置き、静かに名前を呼ぶ。その一言が、不思議と胸を落ち着ける。

 オフィーリアは呼吸を整えると微笑みを浮かべ、顔を上げた。


「パプリカ……実物は初めて見ました。こんなに綺麗な赤色なんですね」

「じゃあ、これなんかどうだい? 届いたばかりのやつだ」

「バニラです。デザートの香り付けに使われるんですよね?」


 「正解だ」と、気を良くしたらしい店主が笑顔でそう言う。きっとこのやりとりは自然な会話になっているはずだ。そう思うたび、またひとつ呼吸がしやすくなる。


「さあ、次の店も覗いてみましょうか」

 

 会話の途切れる頃合いを見計らい、テオバルトの腕がさりげない動きで腰に回された。洋服越しに感じる力強さに、もう自分は一人ではないのだと改めて実感する。

 香辛料の香りが徐々に薄れていく中、新しい空気が肌を撫でる。人々の影が織りなす温かな調べが、まるで懐かしい歌のように響いてくる。こんなに自然に、人の声を、笑顔を、受け止められるようになれたことが不思議だった。

 次に果物屋の前を通りかかった時、オフィーリアは色とりどりの果実に目を惹かれた。


「旦那様、奥様、試食していかないかい? 採れたばかりの新鮮なベリーだよ」


 軒先に立っていた店主がすかさずに声をかけてくる。奥様——その言葉に戸惑い、少し頬を赤らめながら、オフィーリアは隣のテオバルトを見上げた。

 オフィーリアの様子に気付いたテオバルトは、軽く微笑みながら店主に答える。


「では、せっかくなのでひとついただきましょう」


 テオバルトは差し出された籠から、ひとつ摘んで口に運んだ。そんな仕草さえ上品で、オフィーリアは思わず見惚れてしまう。


「とても甘酸っぱくて、美味しいですよ」


 そう言って彼はもうひとつ摘むと、オフィーリアに向けて差し出すかと思いきや——そのまま唇の近くまで持ってきた。


「どうぞ」


 差し出された果実に、今朝の口付けの記憶が重なる。テオバルトの琥珀色の瞳に導かれるように、オフィーリアは恥ずかしさを押し殺して唇を寄せた。受け取った瞬間、指先から伝わる彼の体温が、果実の甘さと共に全身をめぐる。


「……美味しいです」


 オフィーリアが震える声でそう言うと、テオバルトは満足そうに微笑み、ふと視線を遠くに向ける。


「市場の活気と果実の甘さ、そしてあなたの反応——今日の街歩きは実に素晴らしいものですね」

 その言葉に、オフィーリアは思わず目を瞬かせた。テオバルトの表情にはどこか余裕と上機嫌さが漂い、その微笑みがさらに深まる。


「どうやら私は少し、浮かれているようです」


 軽く肩をすくめながらも、テオバルトの声には冗談めいた柔らかさがあった。

 この休日を彼も楽しんでくれている。そのことがオフィーリアの胸を弾ませる。

 そして二人が店先を立ち去ろうとした時、店の奥から飛び出してくる小さな人影があった。


「ねぇ父さん、これどこに置くの?」


 十歳くらいだろうか、果物の入った籠を抱えた女の子がニコニコしながら店主に話しかけていた。

 長い髪はきちんと結ばれており、着ている衣服は清潔そうで、両足とも靴を履いている。傷も汚れもない、綺麗な肌。——そのどれもが、幼い頃の自分が持ち得なかったもの。

「ああ、持って来てくれたのか。ありがとうなぁ」

 途端に破顔した店主は籠を受け取るとそばの棚に置き、娘の頭を撫でた。その仕草に、オフィーリアの心は静かに揺れた。


 日当たりの悪い裏路地。その湿っぽい地面を踏み締める感触を、ふと思い出す。まだ自分の歌がお金になるだなんて知らず、宿屋や酒場の手伝いをしてはわずかな賃金をもらい、食い繋いでいた日々。

 手際が悪ければ怒鳴られ、叩かれた。歌という手段を見つけるまでは、それが当たり前の日常だった。けれど目の前の少女の無邪気な笑顔はかつての自分とは違う、守られた幸せを映し出している。


「お手伝いなんて、良い子ですね」


 オフィーリアの口から自然と、そんな言葉が漏れた。


「元気すぎて困りますがね。でも、ありがたいことです。実はもうすぐ二人目が産まれるんですよ。こんなふうに家族で暮らせるのも、交易路が整備されたからです。そのおかげでこの市場もこんなに活気付いた。外務卿様にも感謝しないと」

 店主に高く抱き上げられた女の子が「きゃあ!」と楽しげに声をあげる。その光景に、オフィーリアの胸がほのかに温かくなる。

 彼の仕事が織りなす幸せが、この市場の隅々にまで行き渡っている。オフィーリアに愛を告げた人は、こんなにも大きな夢を叶えていく人なのだ。


 ふと、隣に立つテオバルトに目をやる。堂々とした立ち姿に柔らかな微笑みが加わり、どこかその姿が市場の喧騒の中でも特別な存在感を放っているように見えた。


「こうして街の人々が笑って暮らせるのは、素晴らしいことですね」

「ええ、その通りです」


 迷いのない声が耳に届く。少しの勇気を振り絞りながら、オフィーリアは視線を向けたままそっと口を開いた。


「……外務卿様は、きっと、ご立派なお方なのでしょうね」


 オフィーリアの言葉にテオバルトはわずかに首を傾け、微笑む。深い色合いを帯びた瞳がこちらを静かに見つめてくる。その視線に後押しされるように、オフィーリアはその腕に歩幅を合わせ、ほんの少しだけ距離を詰めた。


「……そう思いませんか?」


 上目遣いに問いかけたその声には、自分でもわずかな震えを感じる。

 テオバルトの目が一瞬だけ驚いたように見開かれる。それから、彼は自然な仕草で少し身を屈め、オフィーリアの耳元に低い声で囁いた。


「私には、あなたがそう思ってくださることが、何よりの幸せです」


 市場の喧騒さえ遠去けるその声は、まるで愛の言葉のよう。耳元から頬へ、首筋へと広がる温もりに、心臓が早鐘を打つ。


「さて、他に見てみたいものはありますか?」


 テオバルトの声が穏やかに耳に届き、オフィーリアは慌てて顔を上げる。


「えっと……」


 うまく答えられずにいると、テオバルトは考えるように一瞬視線を遠くにやったが、すぐに微笑みを浮かべる。


「少し散策しながら、何か目に留まったら立ち寄るのも良いでしょう」

「はい」


 テオバルトの手を取って、ゆっくり歩き出す。こうした人混みの中を歩くのは本当に久しぶりで、行き交う人にぶつからないか少し心配だったが、彼のエスコートは完璧だった。

 テオバルトの持つ日傘が、周囲の喧騒から守るように穏やかに影を作る。その中にいれば何も不安に思うことはない。その安心感が、オフィーリアの顔に自然な笑顔を浮かべさせる。


「……本当に色々なお店がありますね」

「この市場はアーデンブルグの交易の中心地ですからね。訪れるたびに新しい品物が並んでいるのが魅力です」


 視線を動かせば、笑顔で言葉を交わす人々や、熱心に商品を品定めする様子が目に入る。


(きっとこの街で暮らす人たちは、こうして新しいものに触れるたびに喜びを見つけているのね)


 オフィーリアは日傘の下から、ちらりとテオバルトを見上げた。彼は軽く日傘を持ち直しながら、オフィーリアの歩調に合わせてゆっくりと進んでいる。その仕草の一つ一つに自然な優しさが滲んでいた。

 市場の賑わいの中、誰かが楽しげに笑う声が聞こえた。それがどこか心地良い。日傘の下、穏やかに流れる時間の中で、ほんの少しだけこの街の一員になれた気がした。

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