第三話 旅立ちの朝
ラウレンティアの使者を待つエステリエの城門付近は冬の終わりの穏やかな冷気に包まれていた。雪解けが進んだ地面はまだ湿っているが、澄んだ空気に春の気配がわずかに感じられる。
クラウス・リーベンタールは侍女ベルナと共に馬車を降り、周囲を見渡した。すぐに視線の先に立つ一人の少女——オフィーリアの姿が映る。
傍には一人の兵士が立っているが、その目には逃亡しかねない囚人を監視するかのような警戒の色が宿っており、護衛ではなく見張りに近い印象を与える。クラウスは眉を寄せ、足を速めた。
周囲には他に誰の姿もない。別れを惜しむ家族も、形式的な送りの役人すらいないことが彼女のこれまでの扱いを物語っている。その光景は、クラウスの胸に静かな怒りを湧き上がらせた。
(外套も着せず寒空に立たせるとは……)
オフィーリアは粗末なドレスを身にまとい、震えるように立ち尽くしていた。
肩や裾の縫い目はほつれ、ところどころ生地が薄くなっており、冷たい風を遮る役には立たない。これから嫁ぎ先に向かうにしてはあまりにも寂しい姿だった。
(——ラウレンティアという国そのものを軽視しているからこそだろう)
クラウスはそう考えずにはいられなかった。わざわざ迎えを送らせた相手に対し、これほどまでに無礼で冷淡な扱いをするなど、エステリエ王国の傲慢さが如実に表れている。
何の支度も整えられないまま、まるで荷物のように放り出された少女の姿はあまりにも痛々しく、言葉を失わせるほどだった。
かつて国の至宝とまで呼ばれた者に対し、最低限の体裁を整える程度のこともできない——無能な王と呼ばれるだけのことはある。怒りを抑えながらも、クラウスは冷静さを保とうと努めた。
(迎えに来たのが私達でよかった)
クラウスは心の中で強くそう思った。
エステリエとの間に余計な波風を立てることなくこの結婚を取り付けるために、彼がどれほど慎重に立ち回り、多くの苦労を重ねてきたかを知っている。
しかし今の最優先事項は、この震える少女を無事にラウレンティアへと連れ帰ること。それがテオバルトに命じられた役目であり、自身が果たすべき責務だった。
その決意を胸に、クラウスは前に進んだ。
「オフィーリア様でいらっしゃいますね?」
声をかけると、オフィーリアはわずかに肩を震わせた。しかし視線は足元に落ちたままでこちらを見ようとはしない。代わりに答えたのは隣に立つ、分厚い防寒具を着込んだ兵士だった。
「この娘は口が利けません」
クラウスは舌打ちしたくなるのを堪え、改めてオフィーリアに向き直った。
「シュルテンハイム侯爵の使者としてお迎えに上がりました。クラウス・リーベンタールと申します。こちらは侍女のベルナ・アーデルハイト。以後、お世話をさせていただきます」
オフィーリアがわずかに頷くような仕草をすると、白金の髪がさらりと揺れる。
隣に控えていたベルナが一歩前に出て、自分の外套を肩から外してそっとオフィーリアに掛けた。
「お寒いでしょう? こちらをお使いください」
吐息を漏らしながら、オフィーリアは睫毛を震わせる。そこに明確な拒絶の反応がないことはクラウスにとってわずかな救いだった。しかし怯えを隠すように外套を掴むその手が、彼女の内心を物語っている。
クラウスは改めてオフィーリアに目を向けた。細い肩に粗末なドレスをまとったその姿は、あまりにも華やかさとは無縁で、かつて銀月の歌姫と称えられた存在だとは信じがたい。だが、それでもなお彼女の容姿には目を引くものがあった。
淡い金髪はまるで月明かりを束ねたかのようで、どこか儚げな輝きを放っている。その光沢は手入れが行き届いていないにもかかわらず、彼女の気高さを失わせてはいなかった。
そして、青灰色の瞳——曇天の空に一筋の光が差し込むような、神秘的な色を宿している。その瞳がこちらを見返すことはなく、ただ足元に落とされているのが何とも痛々しかった。
(歌えなくなったとはいえ、この姿にはかつての輝きの片鱗が確かに残っている。だが、それがこの国でどれほど踏みにじられてきたのか……)
オフィーリアの静かな佇まいからは、何も語らない代わりに、彼女が抱える重い過去が伝わってくるようだった。
その時、風に乗って声が響いた。
「リア!」
クラウスが振り返ると、王宮から一人の青年が駆け寄ってくる。黒髪に灰色の瞳、王家の特徴を持つその青年——エステリエの王子エリオン・セディエル・エステリエ。
エリオンはどこか取り返しのつかない何かを掴もうとする切迫感を滲ませ、まっすぐオフィーリアへ駆け寄り、呼びかけた。
しかし彼が目の前に立とうとした瞬間、オフィーリアはまるで触れられること自体を恐れるかのように後退した。本能的に、火傷を避けるかのように。その瞳の震えと強張った表情が、彼女が抱える恐怖の深さを如実に語っていた。
足を止めたエリオンは、それ以上にオフィーリアと距離を詰めることはしなかった。灰色の瞳には拒絶を受け入れざるを得ない戸惑いと痛みと、言葉にできない後悔の色が見える。
「……行く先で、君が幸せになれるよう祈っている。どうか無理はしないでほしい」
そう言葉を紡いだエリオンの声はかすかに震えていた。王族としての矜持と個人的な感情の間で葛藤していることがクラウスの目にもはっきり見てとれた。
意識して表情を変えずに観察していたが、クラウスの心の中には疑問が浮かぶ。彼に、オフィーリアを害そうという気配はもちろんなかった。
彼女が歌姫として活躍していた頃、年齢が近いこともあり二人はそれなりに親しかったとクラウスは認識している。
(殿下にさえもこうなのか……)
クラウスとベルナは自然と目を見合わせた。何かを察したようにベルナが頷き、静かにオフィーリアへ声をかける。
「馬車の用意ができております。お嬢様、どうぞこちらへ」
ベルナに促されるまま、オフィーリアはゆっくりと歩き出した。その背中を見送りながら、クラウスは短く息を吐いた。
今はただ、あの細い肩がどれだけの重荷を背負わされているのかを思い知るばかりだ。
クラウスは姿勢を正し、若き王子に向き直る。
「殿下、ご足労いただき恐縮に存じます。オフィーリア様は我々が責任を持ってお預かりいたしますので、ご安心ください」
「……よろしく頼む」
エリオンは去りゆくオフィーリアをじっと見つめていた。ただ唇をきつく結び、拳を握りしめたまま動かない。
クラウスはエリオンに最後の一礼をすると、足早に馬車へ向かう。すでにオフィーリアは馬車に乗り込んでいた。ベルナが何か話しかけていたが、同乗はせずに扉を閉めた。
「さあ、行こう」
馬車の軋む音が静寂を破り、城門をくぐり抜ける。冷たい風に乗って微かに漂う春の気配が、長い旅路の先にある新しい生活を予感させる。
しかし、その予感が希望なのか、新たな試練の始まりなのかはわからなかった。
2025.3.1 エリオンの名前を変更しました。