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第三十九話 変わりゆく景色

 馬車が規則的に揺れている。窓の外に流れる景色は鮮やかで、まるでこの胸の中に広がる感情を映し出しているかのよう。

 庭で交わした誓い。真っ直ぐに見つめる瞳に想い。指先に触れた優しい感触と、唇に残る微かな温もり。それらが夢ではないと思えるのは今、オフィーリアが街へ向かう馬車に乗っているからだ。

 街に出てみませんか、というテオバルトの誘いは突然だった。朝食の席で、思わずナイフを落としそうになるほどに。

 当惑と、不安と、恐れ。エステリエの王宮に召し上げられてからは一人で外出することなどなく、離宮では常に息を詰める日々。

 テオバルトの屋敷に身を寄せてからも、門扉の向こうに広がる街並みからどこか目を背けていた。いつの間にか、外の世界はどこか遠いものになっていた。


(でも……今日は、テオバルト様が一緒だもの)


 胸の奥に広がる不安を、そっと自分で言い聞かせるように抑え込む。

 目の前に座るテオバルトの姿に、つい視線が引き寄せられる。見つめすぎないよう慎んでいるはずなのに、あの庭で交わした口付けの記憶が鮮やかに蘇り、胸が熱くなる。唇に残る感触を思い出すたび、心臓が早鐘を打つ。


 外出用の紳士服に身を包んだ彼はとても——素敵だった。

 夏の朝露を思わせる明るいグレーの上下に、白糸で精緻な刺繍が施されたウエストコート。そして清潔感のあるアイボリーのシャツが、その端正な顔立ちをさらに引き立てている。胸元には水晶のピンが輝き、朝の光を受けて小さな虹を描いているようだった。

 磨き抜かれた黒の革靴は全体を引き締めるように洗練され、知性と気品の漂うテオバルトの雰囲気に完璧に調和している。その堂々とした姿は、ただ座っているだけでも絵画のように見えた。


(どうしてこんなに格好良いのかしら……) 


 鼓動が自然と早くなるのを抑えようと、そっと胸元に手を添える。

 自分だってベルナに選んでもらったこの服装は普段よりずっと華やかなのに、テオバルトの隣にいると何故か自分が薄れてしまう気がする。

 ペールブルーのドレスは、街中で目立ちすぎない程度に清楚で可愛らしい。胸元や袖口には柔らかなアイボリーのフリルがあしらわれ、上品さを添えている。裾にかけて流れるように施され施された刺繍は見事なもので、全体の優しい色合いが夏の風景に自然と馴染んでいる。


(ベルナがこのドレスを選んでくれた理由……きっと、テオバルト様の服装に合わせてくれたのね)


 二人の服が織り成す色合いが調和していることに気付き、密かな喜びが胸を満たす。

 そして再び窓の外に向けていた視線をちらりと差し向けた先で、テオバルトがわずかに微笑むのを見て、オフィーリアは内心でぎくりとした。


「リア」


 名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねるような感覚を覚える。


「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。気楽に楽しみましょう」


 その声は、今朝の口付けのように優しく、オフィーリアの心に染み込んでくる。

 はい、と小さな声で返事をすれば、琥珀色の瞳がそっと細められた。


(テオバルト様は、きっとお忙しいはずなのに……)


 彼が多忙を極めていることは知っている。それでも今日は、半日仕事を離れて自分と街に出る時間を作ってくれた。身支度を整えながらベルナが話してくれた。「滅多にないことですよ」と、どこか楽しげに微笑んでいた顔が浮かぶ。

 公務のための時間を、貴重な休息を、奪ってしまったのかもしれないという申し訳なさもあった。けれど目の前に座るテオバルトの穏やかな微笑みを見た瞬間、不安は霧散していく。その眼差しには、ただ自分を喜ばせたいという思いだけが宿っているように見えたからだ。 


「外に出るのは本当に久しぶりなので、緊張はしています。でも……それ以上に、とても楽しみです」

 

 オフィーリアは窓の外に目を向けた。馬車は屋敷のある高級住宅街を抜け、街の中心地へ向かっているところだ。

 ラウレンティア大公国の公都アーデンブルクは高貴なる城の町という名に相応しく、美しい石造りの建物が町を彩り、貴族や商人、旅人たちが行き交う活気溢れる都市として知られている。

 馬車が止まり、扉が開く。最初に降り立ったテオバルトは優雅な仕草で手を差し出し、静かな笑みを浮かべる。


「お手をどうぞ、リア」


 その言葉に、オフィーリアは微かに頬を染めながらも、その手を取り馬車から降り立った。


 視界に広がる景色に、オフィーリアの瞳が輝く。


「わぁ、素敵……」


 馬車を降りた場所は、街の中心地へと繋がる広場の端だ。大きな噴水のあるその広場は昔から人々の憩いの場となっている。

 広場から放射線状に伸びる通りの一つが、これから二人が向かう市場へ続いているらしい。

 中心を走る大通りは整然と広がり、道の両脇には歴史ある建物が立ち並ぶ。その上階のバルコニーからは色とりどりの花が溢れるように飾られている。

 どの家も自分の個性を活かしつつも、街全体としての統一感を崩さない様子に、オフィーリアは思わず息を呑んだ。


「とても素敵……まるで絵画みたいです」


 市場への道のりは活気に満ちていた。小道を抜けるごとに、路地に漂う焼きたてのパンの香りや、新鮮な果物を積んだ籠の甘い香りが鼻をくすぐる。オフィーリアは胸の内が弾むのを感じながら、穏やかな朝の日差しの下を歩いていた。

 ペールブルーのドレスの裾が足元で揺れ、手にした白い日傘が軽やかな風を感じている。けれど、その傘の柄は自分の手の中ではなかった。

 隣を歩くテオバルトがしっかりと持ち、オフィーリアの上に影を作っている。その背の高さ故に、傘の下で見上げたその横顔は陽光に照らされて、金褐色の髪が眩しいほどに輝いていた。


 市場に足を踏み入れると、鮮やかな色彩と賑やかな声がオフィーリアを包み込む。


「本当に賑やかですね」


 オフィーリアの声は緊張と好奇心が入り交じっている。

 荷車を押す音、商人たちの異性のいい呼び声、子供達の笑い声——すべてが新鮮で、オフィーリアの胸を高鳴らせた。

 通りには鮮やかな布地や陶器、香辛料、果物などが所狭しと並べられ、太陽に照らされてキラキラと輝いている。風が吹くたび、香辛料の豊かな香りがどこからか漂ってきた。


「市場はいつもこんな調子です。こうして歩くのは久しぶりですが、相変わらず活気がありますね」


 テオバルトの声もどこか楽しげで、オフィーリアはほんの少しだけ安堵を覚える。


「アーデンブルグには複数の市場がありますが、ここが最も賑やかです。異国の品も多く、交易路を通じて様々な国々から運ばれてくるんですよ」


 テオバルトの説明を聞きながら、オフィーリアは歩きながら店先の品々を眺めていく。

 市場は区画によって扱う品が違うようで、ちょうどこの辺りは異国の布地や陶器、香辛料などが目立つ。


 ふと目の前に、鮮やかな香辛料が山のように積み上げられた店が現れた。小さな籠に詰められた赤や黄色の粉末、乾燥させた植物の小枝や種——見たことのない形や色のものが目を引く。


「こうしたものも、交易路を通じて運ばれてきたのでしょうか」

「そうです。特にこれは東方からのものですね。大変貴重ですが、市場ではこうして手に取ることができます」


 しばらくその品々を黙って眺めていたオフィーリアは、やがてぽつりと呟いた。


「実際に見ないとわからないこともあるんですね……」


 その声には感嘆が滲んでいた。香辛料は交易品の中でも高値で取引される人気の品だ。主流な品については本や図鑑で学んできたつもりだったが、実物を目の前にすると、どれも同じように見えて区別がつかない。

 熱心に目を向けていたオフィーリアは、ふと顔を上げた。


「……あ、これはわかります! これは煮込み料理に使うものですよね?」


 小さな指先が示したのは、赤い身を乾燥させた香辛料。隣でその声を聞いたテオバルトが優しげな目を向けてきた。その視線に応えるようにオフィーリアもまた少し笑みを浮かべたとき——


「お嬢さん、お目が高いね。これはパプリカだよ。煮込み料理にも使うし、肉に振り掛けてもいい香りが立つんだ」


 店の奥から現れた店主らしい男がオフィーリアの前に立ち、明るい声でそう言った。大柄な中年の男で、日に焼けた肌が彼の長い商人としての経験を物語っている。


「あ——、」


 オフィーリアは驚きに言葉を失い、視線を落とした。咄嗟に声を出した自分を少し後悔しながら、どう応じればいいのかわからず固まる。

 もう男性は怖くないはずだと——普通に話せるはずだと、そう思っていた。根拠のない自信だった。しかし今、笑顔を向けてくるだけの店主を前に、喉の奥がきゅっと窄まるような息苦しさを覚えてしまう。


(大丈夫、大丈夫……)


 心の中でそう繰り返してみても、すぐに声を出せない。指先がわずかに震える。

 遠くで、誰かの笑い声が聞こえた。

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