第三十八話 交わされる誓い
「お手をどうぞ」
テオバルトは優雅に微笑み、手を差し出す。その手に触れることに、もう恐れはなかった。
二人は少しの間、無言で石畳の小道を進む。日差しが木々の間からこぼれ落ち、風が草木を揺らす心地よい音が耳をくすぐる。
その隣を歩きながら、オフィーリアは不思議な安心感に包まれていた。テオバルトの歩調はまるで最初から自分のために用意されていたかのよう。待つでもなく、急かすでもなく——ただ、そこにいることが自然な距離。
幼い頃から誰かを探していた気がする。この人となら、きっと。その確信が、朝の光と共に胸に染み渡っていく。
「テオバルト様……」
オフィーリアが立ち止まると、繋いでいた手が自然に離れた。それだけのことなのに急に心細くなったような気がして、オフィーリアは両手を胸の前で組んだ。
一歩先で立ち止まり、振り返ったテオバルトの瞳が、光を湛えてこちらを見つめる。
「……昨夜、テオバルト様の言葉に救われました。ありがとうございます。本当に……とても嬉しかったです」
その一言に、テオバルトの表情が優しく緩む。
「私の言葉があなたにとって少しでも意味を持つことができたのなら、それほど嬉しいことはありません」
穏やかな声が耳に届くたび、不安の輪郭がほんの少しぼやけていく。それでも、まだ完全には消えない。胸の奥に残る迷いを抱えながら、思う。この人がそばにいる未来をもっと明確に思い描けたら、どんなに幸せだろう。
「私も、ずっと、あなたのそばにいたいです」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が熱くなる。確かな想いを口にできた喜びと、まだ打ち明けられていない秘密を隠している後ろめたさが、心の中で交錯する。
これまでの人生で、誰かを信じることも、誰かを頼ることも、ずっと怖かった。けれど、この人となら——その想いが、背中を押す。
「でもまだ、話せていないことがあります」
もしかしたらすべて知られているかもしれないと、そんな考えも頭をよぎる。それでもきっと自分から話すことに意味がある。
すべて知ってほしい。その上で受け入れてほしい。彼はこの身勝手な願いを、無碍にする人ではないと思うから。
「私は孤児です。親の顔も知りません」
覚悟を決めたはずなのに、言葉が喉につかえる。でも、ここで言わなければきっともう二度と言えない。過去から目を背け続けることは、この人へと裏切りと同じだ。
「人前で歌いはじめたのも、それでお金がもらえると知ったからです」
生きるために歌っていた幼い自分を、オフィーリアは恥じていない。けれど、テオバルトの前でその事実を語ることに躊躇いはあった。
裸足で裏路地を駆け回っていたような自分が、今こうしてこの場所にいること自体、まるで夢のようなことだった。
ただ耳を傾けてくれるテオバルトの沈黙に背中を押されるように、オフィーリアはさらに言葉を紡ぐ。声の震えを必死に押し殺しながら。
「テオバルト様は由緒正しい伯爵家のお生まれです。ご自身の力で侯爵位を賜って、国を支えていく立場にあるお方です。私の存在が瑕疵になるようなことは、あってはいけないと、思います……」
だから結婚はできないと、そこまで口にすることはできなかった。したくなかった。その言葉を口にした瞬間、すべてが終わってしまうような気がした。
声がかすれ、喉の奥が熱くなる。言葉にすればするほどお互いの身分に天と地ほどの差があるのだと実感して、指先がスカートを強く握り締めた。
オフィーリアの言葉が途切れた時、庭に吹く風の音が二人の間に静かに流れた。テオバルトは目を閉じ、深く息をつくと、穏やかな声で口を開いた。
「確かに、貴族の婚姻には家名や出自が重要視されます」
その言葉を口にするとき、テオバルトの声には普段とは違う、どこか深い感情が滲んでいた。まるで過去の記憶と向き合うような、そんな響きを持っていた。
「それでも私にとって最も大切なのは、あなたと共に歩む未来を築くことです」
テオバルトの瞳は真っ直ぐだった。まるで揺るぎない決意そのもののように、オフィーリアを見つめていた。
その視線に、まるで逃げられないような感覚を覚える。けれどそれは不安ではなく、どこまでも深い安心感だった。
「今の私は……テオバルト様の隣に立つには、足りないものが多すぎます」
思い切ってそう言葉にした瞬間、不思議なほど心が軽くなった。足りないと思わなくていい、彼は確かにそう言ってくれた。けれどこれは後ろ向きな告白ではなく、前に進むための最初の一歩だった。
「私がテオバルト様の妻として、胸を張って生きていけるように……これから少しずつ、変わっていきたいと思います。そのための時間を、いただけませんか?」
テオバルトは一瞬だけ視線を細め、オフィーリアの決意を受け止めるように頷いた。そして、そっと口を開く。
「私には多くの責務があります。その重圧があなたの肩にもかかることを、心苦しく思います」
一瞬の沈黙。その重みは、言葉以上のものを語っていた。
「それでもあなたが私を選んでくださるのなら、あなたと共に、そのすべてを乗り越えていきたい」
まるで風の中に炎が揺れるように、オフィーリアの胸の中で温かな感情が膨らんでいく。
「リア。あなたを愛しています」
短く静かな言葉だった。けれど、その一言に込められた想いは揺るぎない。
まるで時を超えて輝く宝石のように、深い光を宿す瞳。その奥には懺悔と誓いが混ざり合ったような複雑な感情が揺らめている。けれどオフィーリアには、それさえ深い愛情の表れにしか見えなかった。
テオバルトが静かに片膝をつく。周囲の空気さえ静止させるような、洗練された仕草。朝の陽光が降り注ぎ、金褐色の髪が美しく輝く。その姿はまるで絵画の中から抜け出してきたかのようで、けれど、決して夢ではない。
「もう一度、あなたの意思で——正式に婚約を交わしていただけますか?」
陽の光が二人を包み、テオバルトの琥珀色の瞳が深い輝きを帯びている。そこに宿る誠実さを、決意を、愛を、もう疑うことはしない。
まるで永遠の一瞬を切り取ったような静けさの中で、オフィーリアは自分の心臓の音だけを聞いていた。
「はい」
その言葉と共に、差し出された手に自分の指が重なる。テオバルトは静かに身を屈め、オフィーリアの指先に唇を寄せた。柔らかな感触と共に、微かな温もりが指先から全身に広がっていく。
立ち上がったテオバルトの、その指先が、オフィーリアの頬をそっと撫でた。慎重で、どこか躊躇うような触れ方。
彼の顔が静かに近付いてくる。吐息さえ肌に触れそうな距離で、テオバルトは一瞬だけ動きを止めた。オフィーリアは小さく頷き、目を閉じる。
次の瞬間、柔らかな感触が唇に触れる。まるで蝶が羽を休めるような、優しさそのものだった。これからきっと何かが変わっていく。そんな甘やかな予感が胸を満たした。
第一部、完結です。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
第二部にも引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。




