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第三十六話 試される覚悟

 言葉を吐き出すたびに、オフィーリアの身体は小さく震えた。


「陛下が……強引に、想いを、遂げようとされて……」


 震える声が落ちた瞬間、テオバルトは静かに息を詰めた。迷わず一歩を踏み出し、その前に膝をつく。それだけのことにも、オフィーリアの肩は小さく跳ねた。


「辛いことなら、無理に言わなくてもいい。私はすべてを知る必要があるわけではない。あなたが言葉にできるようになるまで、待つ覚悟もある」


 言葉を尽くしても、その傷が癒えるわけではない。それでも無理に言葉にすることで、さらに追い詰めることはしたくなかった。

 しかし、オフィーリアは何度も小さく首を横に振る。言わなければならない、と彼女の意志が語っていた。


「でも、抵抗して……誓って、何も、ありませんでした。ただ……私には……潔白を証明する手立ても、ありません」


 震える言葉の一つ一つが、氷の欠片となって床に落ちる。オフィーリアの声は震えながらも、その瞳に宿る不安はまるで自分に縋り付くようで。信じてほしいと——そう訴えている。


「私が声を失ったのは、その時からです……」


 その言葉が落ちると、寝室に静寂が訪れた。柔らかな月明かりがカーテン越しに漏れ、彼女の頬を濡らす涙を金色に輝かせる。けれど、その光さえも、彼女の沈んだ瞳を救うことはできないように思えた。


(声を失うほどの恐怖……彼女はどれほどの苦しみを抱え、これまで過ごしてきたのか)


 拳を強く握りしめ、テオバルトは心の内に湧き上がる怒りを押し込める。静かに、深く、どこまでも沈んでいくような怒り——しかし、それを彼女に向けることはできない。


「リア……」


 静かに名前を呼んだ時、オフィーリアはびくりと身体を震わせた。こちらの視線を受け止める瞳には微かな怯えが宿り、()()()()()()()()の、幼い瞳を彷彿とさせる。

 その瞳がテオバルトを冷静にさせた。今ここで自分が感情的になるべきではない。深く息を吸い、意識的に声を落ち着かせる。


「あなたの言葉を信じます」


 オフィーリアを見つめるその瞳には、深い決意と優しさが込められていた。


「あなたが誓うなら、それだけで十分です。証明など必要ありません」


 オフィーリアの目が潤み、声にならない震えが唇を掠める。何かを信じたいと思いながらも、それを怖れる気持ちが、その美しい瞳の中に絡みついているようだった。

 その姿は再びテオバルトの胸を傷ませた。どんな言葉を使えばその憂いのすべてを取り除けるのだろうか。


「リア。あなた辛い記憶を話してくださったこと、それが私への信頼の証であるなら、私はその信頼を決して裏切らないことを誓います。どんな過去があろうとも、あなた自身が私にとってかけがえのない大切な存在であることに変わりはありません」


 オフィーリアの瞳が一瞬だけ揺れた。その言葉に触れた瞬間、彼女の中に何かが芽生えたようだったが、自己否定の重みがその芽を押し潰そうとしている。


「私に、どんな価値が……あるって言うんですか?」


 差し出された手が、おずおずとテオバルトのタイに触れる。その指先はすがりつくような、でも離れる覚悟も秘めた震えが宿っている。


「教えてください……本当に、私でいいのかを」


 震える指先が、タイを通してテオバルトの鼓動を探る。その仕草に込められた孤独と願いが、胸を締め付ける。愛しさが痛みに変わり、また愛しさに戻る——その感情の渦に、テオバルトは静かに身を委ねた。


「私にも、愛しい人に触れたいと思う欲求はあります。それを自制しているのは、今ここで私あなたに触れることが本当にあなたのためになるのか、確信が持てないからです」

「今だけ……その自制を、緩めることはできませんか」


 その囁きが耳に届いた瞬間、テオバルトは一瞬だけ心を揺らされた。


「それがあなたの本心だと、言い切れますか?」


 責めるような響きを持たないよう気を付けながら、テオバルトは静かに問いかけた。 


「私は、あなたを傷つけるつもりはありません。それでも、あなたの今の心情を軽んじることもできない。だから、どうかもう一度、自分の気持ちを考えてください」


 オフィーリアはわずかに肩を震わせた。目を伏せたまま唇がかすかに動くが、言葉はすぐには出てこない。その姿を見て、テオバルトは彼女が言葉を探しているのだと感じた。


「……本心……です」


 途切れ途切れの言葉。だが、そのか細い声にはどこか迷いが見えた。

 一呼吸置いて、オフィーリアは静かに顔を上げる。青灰色の瞳には涙が滲み、その奥に不安と切実な願いが混在している。テオバルトはその視線をまっすぐに受け止めた。


「私は……あなたになら……傷つけられてもいいです」


 その震えた声と真剣な瞳が、テオバルトを貫いた。

 言葉の重みと、そこに込められた覚悟と自己否定の苦しさが、一気に押し寄せてくる。


 その言葉が、どれほどの孤独と苦しみから生まれたのか。テオバルトは青灰色の瞳を、まるで逃げることを許されないかのように見つめ返した。

 オフィーリアの瞳は揺るぎない決意を宿しながらも、涙に濡れている。その表情は、無垢でありながら切なく、テオバルトの心に深く刻まれた。


 テオバルトは一瞬目を伏せた後、もう一度オフィーリアを見つめた。


「リア」


 テオバルトの指先がオフィーリアの頬に触れる。まるで希少な宝石を扱うような慎重な動きで、涙で張り付いた横髪を耳の後ろへ掻き上げた。

 ゆっくりと顔を近づけると、オフィーリアは微かに肩を震わせ、青灰色の瞳を大きく見開いた。戸惑いと期待が入り混じった反応に、テオバルトの胸にまた微かな痛みが走った。 

 それは拒絶ではない。だが、彼女がまだ迷いの中にいることを、明確に伝えるものだった。


(まだ心の準備が整っていない——それでもリアはここまで勇気を出してくれたのだ)


 そう悟ったテオバルトは、静かに目を細めると唇を額に寄せた。その温かな感触に、オフィーリアの身体が一瞬だけ緩む。


「あなたを守りたいと、それだけを思ってきました。ただ、その行動があなたに不安を与えていたのなら、私の至らなさが原因ですね」


 静かな声に、深い後悔と優しさが滲んでいる。テオバルトは少し間を置き、オフィーリアの瞳を見つめて続けた。


「人は誰でも不安や弱さを抱えています。でも、それを〝足りない〟〝欠けている〟と表す必要はありません。あなたの過去も、迷いも、悲しみも、すべてが今のあなたを形作っている。私はその〝すべて〟を愛しています——何も欠けてなんていません」


 震えていたオフィーリアの肩から力が抜け、硬く閉ざされていた表情が次第に柔らかくほどけていく。

 そして、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。けれどそれは、深い悲しみではなく、長い間押し込めていた感情が解放された涙だった。


「私も——」


 その瞬間、オフィーリアの腕から楽譜がすべり落ち、床に音を立てて落ちた。まるで長い間抱えていた重荷を、ようやく解放するように。それに気付く間もなく、震える両手で顔を覆った。


「テオバルト様が……好きです。ずっと、ずっと……」


 震える声が、夕暮れの光の中で微かに揺れる。その一言が、まるで凍えた冬の終わりを告げる春風のように、テオバルトの胸に温かく染み込んでいく。

 オフィーリアの肩が小刻みに震え、指の隙間から零れる涙が静かに床へと落ちる。テオバルトは一瞬だけ手に伸ばしかけたが、そのままそっと立ち上がり、オフィーリアの隣に腰を下ろした。


 震える肩に触れ、テオバルトはそっともう片方の手をオフィーリアの背中に添える。慎重に、しかし確かな力で抱き寄せると、細い身体は抵抗することなく腕の中におさまった。


「無理に涙を止めなくてもいい。あなたの想いを、そのまま私に預けてください」


 小さな背中を優しく叩きながら、テオバルトは願う。自分が彼女の安らぎとなれることを、この腕の中で感じる温もりが、彼女の心を少しでも癒やせることを。


 月の光が窓辺を照らし、静かな時間が流れていく。

 やがて、オフィーリアの震えが少しずつ落ち着いていった。深い溜め息が漏れ、テオバルトの上着を掴む指からも徐々に力が抜けていく。

 疲れが一気に押し寄せてきたのだろう。嗚咽が小さな呼吸音に変わり、胸元に寄り添う体が、ゆっくりと安らかな眠りへと誘われていく。


(眠ったのか……)


 テオバルトはその安らかな寝顔を見つめ、静かに息を吐いた。涙の痕が頬に残り、睫毛には微かな涙の粒が光っている。その姿は、テオバルトの胸に愛しさと切なさを同時に湧き上がらせた。

 どれほどの想いを胸に秘めていたのだろう。それを一人で抱え続けていた彼女の強さと、その心の痛みに、胸が締め付けられる。


「リア……どうか、安らかに」


 小さく呟きながら、オフィーリアをそっと抱き上げる。その軽さに、彼女がどれほど無理をしてきたのかを思い、胸が締め付けられるようだった。

 淡い月の光に照らされた白金の髪が、まるで糸のようにテオバルトの腕をそっと投げる。胸元で立てる穏やかな寝息を聞きながら、テオバルトはオフィーリアがはじめて自分に心を開いてくれたことの意味を、深く、確かに感じていた。

 それは喜びであると同時に、大きな責任でもあった。この儚くも強い想いを、必ず守り抜かなければならない。その揺るぎない決意が、静かに胸の奥で形を成していく。


 寝台にオフィーリアをそっと横たえ、掛布をかける。乱れた金髪を手で整えながら、その毛先に静かに口付けた。

 月光が縁取る横顔に、かつての傷跡と、これからの希望が交差する。儚いようで、でも確かな命の温もりが静かに息衝いている。


「おやすみなさい、リア。あなたの夜が穏やかなものでありますように」


 その祈りのような言葉を残し、テオバルトは扉に手をかける。振り返れば、彼女の寝息が静かな部屋に満ちていた。

 閉じられた扉の向こうで、新しい絆が確かに芽吹いていることを感じながら、テオバルトはそっと夜の静寂に身を委ねた。


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