第三十五話 語られる過去
カーテン越しに夕陽の残光が差し込む室内。四本柱の天蓋付きの寝台に、オフィーリアは腰掛けている。窓からは夜の気配が忍び寄り、月の光が部屋を明るく照らしはじめていた。
瞳は赤く腫れ、長い金髪は乱れがちで、その儚げな姿はまるで一枚の絵画のように美しく、そしてそれだけに残酷だった。
「オフィーリア嬢」
テオバルトは、ためらいながら一歩を踏み出す。そして寝台の少し手前で足を止めた。
その時、彼女の手に握られているものが目に入る。
——楽譜。
書斎に置いていたものだ。しかし、テオバルトはそれを一瞥するだけで、それ以上は触れなかった。
深く息を吐き、できるだけ優しく、静かな声で言葉を紡ぐ。
「無理に話す必要はありません。ただ、今のあなたが感じていることを、少しでも聞かせていただけたらと思います」
しばらくの間、オフィーリアは俯いたまま動かなかった。だが、やがて重たそうに顔を上げた彼女の瞳は、どこにも焦点が合わないままだった。
「歌が……」
掠れた声が部屋に響き、その一つ一つが刃となって胸を抉る。
「歌えない、歌えないの……。言葉は、出るのに……」
その言葉が零れ落ちると同時に、オフィーリアの指が震え、握りしめていた楽譜が膝の上で小さく音を立てる。彼女の痛みがどれだけ深いものか、その姿から痛いほどに伝わってきた。
「あなたの楽譜を見たとき、こんなに大切にしてもらえていたと……嬉しくて、もしかしたら歌えるようになるかもしれないと、思いました。でも、駄目で、どうして——」
歌えない自分には何の価値もないのだと、そう言ってオフィーリアは肩を震わせる。言葉は次第に途切れ、やがて涙混じりの嗚咽に変わった。
「もう……どうしたらいいのか、わ、わからないの……」
それは限りなく弱々しく、まるで消え入りそうな音だった。
彼女は確かに変わった。話せるようになり、自然に笑うようになり、自ら進んで何かをやりたいと主張できるようにもなった。しかしその裏で、こんなにも深い苦しみを抱えていた。
(何故、もっと早くにそのことに気付いてやれなかったのか)
「歌を失ったあなたがどれほど苦しんでいるか……私にはそのすべてを理解することはできません」
テオバルトはオフィーリアの手元にそっと視線を落とす。そして、震える指先が撫でる楽譜を見つめた。
(ただ——その苦しみは、少しだけわかる気がする)
思い出すのは、自分自身が何かを成し遂げた後に感じる虚しさ——もっとできたはずだと、際限なく自分を責める感覚。誰かに評価されても、それを素直に受け入れられないもどかしさ。
(今の自分を認められないという痛み。その一端は、私自身にも覚えがある。けれど——リアの苦しみは、私のそれよりは遥かに深いのだろう)
その想いが、言葉となって口をついた。
「それでも、今のあなたに価値がないということはありません。歌を失ったとしても、あなたが大切にしてきたものは、今もあなたの中に生きています」
肩を震わせるオフィーリアの視線が一瞬だけ揺れ、テオバルトを見上げる。
「歌えない今の自分を許せないのは、あなたがどれほど歌を大切にしてきたかの証です。あなたがその痛みを乗り越える日が来るまで、私はそばにいます」
オフィーリアは楽譜を抱き締める手に力を込め、震える声で問いかけた。
「……もし一生、このままだったら?」
テオバルトは小さく息を吸い、即座に答えた。
「歌が戻らなくてもあなたがその痛みと一緒に生きる道を選ぶのなら、私はその道をあなたと共に歩みます。それがどんなに長い道でも、苦しい道でも。あなたがそれを信じられるようになるまで、あなたの隣で、心を尽くしたい」
その言葉に、オフィーリアの瞳が緩み、再び震える声が紡がれる。
「どうして……そんなことが言えるのですか。どうして、こんな私に結婚を申し込んだのか……私にはわかりません。もう私は……外交の駒にもなれないのに」
その問いは静かにテオバルトの胸に突き刺さる。ずっと話せずにいたこと。オフィーリアがそのことに思い悩んでいたのなら、それは間違いなく自分のせいだった。
「あなたを望んだのは私個人の意志です」
テオバルトは一瞬、視線を落とし、言葉を探すように唇を引き結んだ。そして、真摯な声で答えた。
「あなたが辛い境遇にあると知り、放っておけませんでした。以前のような明るさを……取り戻してほしい。それができるはずだと信じています。そして……そうするべきだったのです、もっと早く」
屋敷で対面した時の、あの心臓が凍り付くような衝撃を今も忘れられないでいる。自分以外のすべてのものを恐れるような瞳には深い諦念が宿っていた。早く救い出すべきだったと、あれほど己の無力さを感じたことはない。
オフィーリアの瞳が揺れ、唇が震える。
「そんなふうに優しくされると、どうしても疑ってしまいます。私なんかを選んだ理由が……憐れみなんじゃないかって」
「違う」
言葉は自然と口をついて出た。
それは理性を超えた衝動だった。
「憐れみで、人生と共にしたいなどと考えるはずがない」
自分の声が耳に響く。その瞬間、胸の奥がわずかに震えた。
本を開くたびの指先の仕草、庭に咲く花を見つめる横顔、時折見せる小さな微笑み、可憐な声。それらの一つ一つが、静かに、けれど確実に自分の心を満たしていた。
いつからだろう。共に過ごす時間が、呼吸のように自然で大切なものになっていた。未来を思い描くたび、その光景の中には必ず彼女がいて——
(あぁ——これが、愛なのだ)
その認識は、まるで長い間探していた答えが突然目の前に現れたかのように、鮮やかな光となって心を満たしていく。今まで曖昧だった感情が、一瞬にして確かな形を持った。
彼女に向けたこの想いは庇護欲でも義務感ではない、ただ純粋に——彼女自身を愛するものだった。
「あなたがどんな過去を背負っていようと、どれだけ傷付いていようと、私は今ここにいるあなたが愛しい」
その言葉は、自分自身に向けた宣誓でもあった。オフィーリアが自分をどう思っているのか――敬愛か、親愛か、あるいは別の何か。もうそんなことは重要ではなかった。
オフィーリアが自分をどう思っているかに関係なく、自分の中にある感情は揺るぎないものだと確信していた。それを自覚した時、すべての迷いが霧のように晴れた。
自分が何を望み、何を守りたいのか。
それは彼女の笑顔であり、彼女の未来だった。
「……愛しい、なんて……」
テオバルトの言葉に、オフィーリアの瞳が大きく揺れた。その揺らぎは、驚き、喜び、そして――迷い。
彼女の唇がわずかに震え、その後に続くべき言葉を探しているのが見て取れた。しかし結局、言葉にはならず、彼女は視線をそっと下げる。
抱きしめるように楽譜を胸に引き寄せるその仕草は、安堵にも見えたが、同時に不安を紛らわそうとしているようでもあった。
その姿を前に、テオバルトは心に微かな痛みを覚える。彼女は確かに自分の言葉を喜んでくれている——だが、完全には受け止められていないのだ。
(私の想いを伝えたことで、彼女の心を軽くするどころか、むしろ何かを背負わせてしまったのではないか……)
楽譜を握る指先はわずかに震えていて、その表情には心の奥に渦巻く感情が映り込んでいるように見える。
「リア」
静かに名前を呼ぶと、彼女ははっとしたように顔を上げた。その瞳には微かな涙の痕があり、けれども奥にはまだ深い影が潜んでいる。
「私の言葉が、あなたを困らせてしまったのなら申し訳ない。だが、それが偽りのない私の気持ちだと、信じてほしい」
オフィーリアはじっとこちらを見ていた。テオバルトの瞳の奥にある真意を探ろうとでもするかのように。
その青灰色の瞳には、喜びと不安が混ざり合っている。今にも涙が零れそうな輝きを讃えながら、どこか深い影を宿している。まるで、光を受け入れることを恐れているかのように。
やがてその唇が、何かを言いたげに動く。必死に言葉を探している様子だが、その表情からは心の動揺が見て取れた。
震える指が楽譜をきつく握りしめ、白く細い指先が一層色を失っていく。何か、言わなければならないことがある。だが、それを口にすることに強い躊躇いを感じているのだと伝わってきた。
(何を恐れている……?)
その瞳の奥に潜む不安の正体が掴めず、テオバルトは静かに彼女の言葉を待った。
「でも、私は……傷物です」




