第三十四話 記された想い
「では、今日はこのあたりで失礼します。何かわからないことがあれば、いつでもお呼びください」
オフィーリアは丁寧に礼を述べると、クラウスは軽く一礼して書斎を後にした。
少しして、オフィーリアも紅茶を飲み終え、カップを静かに置いた。立ち上がろうとしたその時、書斎の一角に置かれた黒いケースが目に留まる。
「……ねぇベルナ、テオバルト様はバイオリンを弾かれるの?」
そっと囁くように尋ねると、テーブルの上を片付けていたベルナは小さく首を傾げた。
「そのようなお話を伺ったことはあります。ただ、私も実際に演奏されているところを見たことはございません」
以前は、テオバルトはただ遠い存在だった。歌えないオフィーリアを望んでくれる、どこか得体の知れない人。けれど今は違う。彼が見せる静かな優しさ、知識を惜しみなく分け与えてくれる姿。書斎で交わした言葉の一つ一つが、テオバルトという人を、少しずつ近くに感じさせていく。
誰もいない夜の書斎で、彼がバイオリンを手に取る様子を、今なら想像できる。何かを思いながら、あるいは何かを忘れるように、その音色を響かせる彼の姿を。その姿を、見てみたいと思っている自分がいた。
バイオリンケースに寄り添うように、いくつかの冊子が並べられている。恐らく楽譜なのだろう。そっと手に取ると、革張りの表紙が滑らかに指に吸い付く。埃ひとつないその表面に、大切に扱われている様子が窺える。
開いた瞬間、音符が整然と並ぶページが視界を満たした。見慣れた形式。綴られる歌詞。細やかな音楽記号の数々。
(……歌曲用の楽譜だわ)
胸がざわめく。まるで遠い記憶が不意に引き戻されるような感覚が、胸を強く揺らした。
大広間に響く歌声、シャンデリアの輝き、温かな拍手が——それらが今も耳元で鳴っているかのよう。そして一瞬の閃光のように、すべてが闇に沈んだ瞬間が蘇る。
楽譜にはいくつかの書き込みがあった。『銀月の歌姫 その名の通り美しい歌声だった』と記すその文字を、オフィーリアは知っている。カードで、書物で、何度となく見ては指でなぞった、あの筆跡。
テオバルトが歌姫時代のオフィーリアを知っていることは不自然ではない。自分の名前が国を超えて知られていたという自負もある。けれど彼は、一度もオフィーリアの過去に触れようとしなかった。いっそ不自然なくらいに。
「お嬢様」
ベルナの声に、オフィーリアは我に返った。
「そろそろお部屋に戻りましょう」
その言葉に、オフィーリアは慌てて楽譜を閉じた。思わず胸に抱き締める。ベルナの視線に気付かれないよう、他の本に紛れ込ませるように。
「本は私がお持ちいたしますよ」
気遣いの声に、オフィーリアは黙って首を横に振る。心臓の音が大きく響く。この楽譜の存在を、まだ誰にも知られたくなかった。
部屋の扉が閉まる直前、「しばらく一人にしてください」と告げた。一人で部屋にこもって本を読む機会が増えた今、その発言は何も不自然ではなく。微笑みと共にベルナは去っていく。
椅子に腰掛け、震える指で楽譜を開く。
『星明りの下で輝くような旋律』『深い夜のような響き』――どれもかつての自分を讃える言葉。その文字には心からの賞賛と愛情が滲んでいて、読み進めるうちに胸の奥が不思議な温かさで満たされていく。
(テオバルト様……)
指先で文字をなぞるたび、胸がじんわりと温かくなる。彼に届いた自分の歌声が、これほどまでに美しいものだったなんて。
度となく手にとられた柔らかさがあるのに、きちんと平らに伸ばされ、大切に保管されている楽譜。その優しさに溢れるたび、胸が痛むほど暖かくなる
心臓が早鐘を打ち、頬が熱くなる。
穏やかに告げられた言葉、ふとした瞬間に向けられた微笑み、さりげない気遣いの数々——それらが突然、胸を締め付けるように愛おしくなる。今まで気付かなかった、見えていなかった想いが、一気に鮮明になっていく。
(私、テオバルト様のことを……)
この感情に名前を付けた瞬間、もう後戻りはできないと知っていた。
しかし、その温かさはほんの刹那のことだった。
楽譜に記された文字が、まるで嘲笑うように揺れている。銀月の歌姫――その名前が、今の自分を否定する烙印のように胸を焼く。彼の心を捉えたのは、あの輝かしい歌姫。
(歌えない、今の私には——)
喉が痛むほど、言葉を飲み込む。
楽譜に触れる指先がかすかに震える。胸の奥が熱くなり、同時に不安が冷たい鎖のように絡みついてくる。
目の前の楽譜は、まるで過去の自分そのもの。あの日々を思い出させるだけでなく、今の自分がどれだけ変わり果ててしまったのかを容赦なく突きつけてくる。
(また歌いたいのに……また、あの頃のように歌えるようになりたいのに……)
喉に手を当てる。けれど何度繰り返しても、そこから出るのはわずかな掠れた音ばかり、まるで透明な壁に阻まれるように、音にならない。
頭の中では旋律が鮮やかに響いているのに、ピアノの音が、弦楽器の響きが、そして自分の歌声が、完璧な調和を奏でているのに——
「——っ!」
何度も挑戦しようとするたび、喉の奥が締め付けられるように苦しくなる。呼吸が乱れ、手のひらが冷たく汗ばむ。
かつて歌声は自然に溢れ出てきた。誰かの涙を見れば慰めの歌を、笑顔を見れば喜びの歌を。それは呼吸のように自然なことだった。歌は単なる才能ではなく、自分そのものだった。
(あの頃の私は誰かに必要とされていた。私には意味があった。でも、今の私は——)
歌えない。無価値。欠陥品。誰かの声が頭の中で反響する。それを否定するだけの自信が持てない。
テオバルトは多くの人を導き、国の未来を切り開く力を持っている。それに比べて自分はただ歌うことしかできず、その歌さえ失った。
ほんの少し勉強して知識をつけた気になっても、テオバルトやクラウスの足元にも及ばない。その事実が、冷たい刃のように心を刺す。
どうして声が失われたのか。そのきっかけを、テオバルトは一度も聞こうとしない。
でも、どう説明すれば良いのか。
あの夜のことは、オフィーリアの記憶の中でさえぼんやりとしている。圧倒的な恐怖と、凍りついた時間の感覚だけが、今も生々しく残っている。証拠も証人もない。証明できるものは何もない。
けれど、このまま黙っていることは、テオバルトへの裏切りのようにも思える。その優しさに、誠実さに、嘘で応えているような後ろめたさが日に日に大きくなっていく。
生まれてからはじめて、安らぎを感じられた場所。
いつの間にか馴染んでしまった居場所を失うかもしれない恐怖と、突き付けられたなら受け入れるしかないという諦念が胸の中で相反する。
手元の楽譜がわずかに震える。指先の力を抜けば崩れてしまいそうな、不安定な自分がそこにいた。
窓から差し込む夕陽が楽譜の上で揺れている。喉元に手を当てれば、そこに閉じ込められた叫びが脈を打っている。新しい自分を作ろうとした努力も、彼への想いも、すべてが砕けそうになる。
カーテンが風に揺れる音だけが響く部屋の中で、オフィーリアは楽譜を胸に抱きしめたまま、声にならない問いを繰り返していた。
(私は、誰としてここにいられるの?)
◇
テオバルトが公務を終えて自宅に戻ったのはいつもより少し遅い時間だった。玄関にはクラウスとベルナが待っていた。二人の表情に浮かぶ微かな翳りに、すぐ違和感を覚える。
「お嬢様が……お部屋から出ていらっしゃいません」
挨拶もそこそこに、ベルナが切迫した声で告げる。その言葉に、テオバルトの眉間に皺がよった。
「何かあったのか」
「心当たりは特にございません」
クラウスが一歩前に出て、落ち着いた声で説明を続けた。
「昼過ぎに書斎で勉強されていましたが、そのあとお部屋に戻られて『一人にしてほしい』とおっしゃいました。それ以来、返事がなく、扉には鍵がかかっております」
テオバルトは傍の柱時計に目をやる。昼過ぎからとなれば、もう何時間も経っている。
(眠っているだけならいいが……)
だが、鍵をかける理由が気にかかった。すぐに踵を返し、オフィーリアの部屋へ向かう。クラウスとベルナもあとに続いた。
「私です、オフィーリア嬢。どうか声を聞かせてください」
返事はない。扉の取手を回してみるが、やはり鍵がかかっている。耳を澄ますと、室内からかすかな声が聞こえた——それは押し殺した啜り泣きのようだった。
胸の奥が一気に冷たくなる。
何が原因なのかを考えるよりも先に扉を開けたい衝動に駆られたが、思い直す。彼女の心に無理に踏み込むことはしたくなかった。
だがここで立ち尽くすことは、彼女の孤独を放置することに等しい。それだけは避けるべきだ。
「……合鍵を」
テオバルトが手を差し出すと、クラウスは無言で鍵を渡した。小さな鍵を握り締め、もう一度扉に向き直る。
「オフィーリア嬢、返事がなければ中に入ります。どうかお許しください」
返事を待ったが、やはり中は静まり返っている。
鍵を開け、そっと中に入る。薄暗い部屋の中、カーテン越しの夕陽が床に淡く影を落としている。
その中で、多くの寝室への扉が静かに閉まる音がした。ふわりと漂う甘い香りに混じるかすかな湿気が、彼女が泣いていることを物語っている。
テオバルトは寝室の前で足を止めた。扉に手を掛けたまま、言葉を探す。
「オフィーリア嬢、あなたが辛いのなら、どうかその理由を話してください。私は……」
言葉を飲み込む。自分にできることはあるのか、そもそも彼女が自分を必要としているのか、その問いが心を締め付ける。
「……あなたのそばにいたい。それだけです」
寝室からは何の返事もない。ただ、泣き声が少し小さくなったように感じられた。
長い沈黙があった。そして、扉の向こうから微かに声が返ってくる。
「……どうぞ、お入りください」
扉越しの声はか細く、消え入りそうだった。
テオバルトはそっと扉を開けた。




