第三十三話 綺麗な部分だけ
オフィーリアを部屋まで送り届け、ベルナに託す。テオバルトは執務室の重い扉を開けた。そこには先程までの時間が嘘のように静寂が広がっている。机の上に積まれた書類が、山積みの課題を無言で訴えかけてくるようだった。
北方との交渉はようやく一区切りがついたものの、その他の案件は次々と積み上がっていく。それでも、今のテオバルトの思考は先程の場面に引き戻されていた。
(……リア)
自ら学びたいと願い、熱心に取り組む姿には感銘を受けた。あの青灰色の瞳が自分を見つめた時、確かにそこに宿る熱意を感じた。自分の言葉一つ一つを真剣に受け止めてくれる姿勢が、これほど嬉しいとは。
彼女がノートを埋める姿、問いかけに真剣に向き合う瞳——それらを思い出すたび、不思議な感覚が胸の中で揺れ動く。
熱意に応えたいと思いながらも、相変わらずその表情にはふとした瞬間に翳りが浮かぶ。
その理由がわからず、それ以上に踏み込めない自分に苛立ちを覚える。彼女の心の奥深くに触れる権利は、自分にはまだないと感じていた。
溜息を漏らした瞬間、控えめなノックが扉に響いた。振り返ると、クラウスが顔を覗かせている。
「遅い時間に失礼いたします、テオバルト様」
「構わない。入れ」
クラウスは手に書類の束を抱え、テオバルトの机へそれを置くと、微かな笑みを浮かべながら、何かを言いたげな様子で立っていた。
「言いたいことがあるなら言うといい」
テオバルトが促すと、クラウスは含み笑いを浮かべた。
「お嬢様も、先程の時間をとても楽しんでおられたようですね」
微笑みながら告げられた言葉に、テオバルトは何かを計るような意図を感じ取る。
「……ああ、彼女の真剣さにはこちらも応えたくなる」
それが本心であることに違いはない。だが、口にした途端、言葉に込めた以上の意味があるような気がして、書類の束を無意識に手繰った。
「……しかし、リアが最初に頼ったのは君だったな」
「特別な相手には、自分の綺麗な部分だけ見ていてほしいと思うものです。お心当たりがありませんか?」
クラウスの口調には、どこか意味ありげな響きが含まれていた。思い当たる節に、テオバルトは黙り込む。
「私には、可愛らしい乙女心のように思えます。お嬢様がようやく年齢相応の感情を抱きはじめたのであれば、喜ばしいことですね」
乙女心。不慣れな言葉を反芻するように呟く。外交交渉で相手の本心を読むことは得意だが、クラウスの言うそれは、テオバルトにとっては未知の領域だった。
十八歳。そうした複雑な感情を抱きがちな年齢ではある。幽閉生活で抑圧されていた心が少しずつ解放されているのであれば、確かにその変化は喜ばしい。
「しかしお嬢様が抱いている感情は、いわゆる尊敬や憧れだけではないようにお見受けします」
その声には確信が宿っている。テオバルトは顔を上げ、軽くため息をつくように笑った。
「……それが真実だとしても、彼女の気持ちを利用するような真似はできない」
「利用……ですか」
クラウスは静かに言葉を繰り返した。
「彼女には身寄りも帰る場所もない。ここを出て一人で生きていく術も持たない。そんな環境で私のような者に好意を抱くとしたら、それは当然のことだ」
クラウスはしばし黙っていたが、微かに口元を緩めると、静かに言葉を重ねた。
「お嬢様があなたに心を寄せているのが当然のことだとおっしゃるなら、どうしてそれを〝当然〟として受け止めて差し上げないのですか?」
「……それは卑怯だろう」
テオバルトの声にわずかな苦悩が滲む。自由でいてほしい、守りたいと思いながら、実際のところ屋敷に閉じ込めているに過ぎない。
結婚という制約のもと囲い込んで、そうして作られた好意を当然のものとして受け入れることは、どうしてもできなかった。
「私は彼女の逃げ場になりたくない」
テオバルトは静かに、しかし強い意志を込めて言った。
状況が生んだ依存や甘えを、愛情と混同してはいけない。彼女には本当の意味で自由に選択してほしい。
それなのに、自分は彼女に選択肢を与えているとは言えない現状に、どこか後ろめたさを感じずにはいられなかった。
「テオバルト様。お嬢様のお気持ちを、そこまで軽んじる必要はないかと思います」
「軽んじているわけではない」
即答する。否定せずにはいられなかった。
「だからこそ、慎重にならざるを得ない。彼女にはもっと広い世界を見てほしい」
そう言いながら、テオバルトは自分の言葉の矛盾に気付いていた。
深い溜め息が漏れる。机の上の書類に目を落とすが、文字の一つも頭に入らない。
「卑怯だとおっしゃいますが、果たしてそれは本心でしょうか」
クラウスは柔らかな口調ながらも、一歩も引かない視線をテオバルトに向けた。
「ではお嬢様が——例えばあなたではなく私を伴侶に選ばれたら、その時は快く婚約を解消して、祝福してくださいますか?」
テオバルトは答えられず、薄く唇を引き結ぶ。その沈黙を見たクラウスはさらに言葉を重ねた。
「お嬢様が熱心に学ばれる姿は、私も心を動かされるものがあります。私でなくともいずれ同じような男は今後いくらでも現れるでしょう。そうなっても、あなたは〝卑怯〟だとか言って向き合うのを避けられるのですか?」
クラウスの言葉には親しみと共に鋭さも混じっている。彼がかつて外務省でどれほどの手腕を発揮していたかをテオバルトは改めて思い出した。
「それに、今のお嬢様のお気持ちを一時的な〝気の迷い〟のように扱うのは、お嬢様に対しても失礼ではありませんか?」
「……失礼だと?」
「ええ。お嬢様は、自らの過去や不安と向き合いながらも、ご自分にできる最善を尽くしていらっしゃいます。それがどれほど勇気のいることか、あなたも理解されているはずです」
同時にそれが真実だと感じざるを得なかった。彼女が不安や恐怖を抱えながらも懸命に歩んでいる姿を自分もまた間近で見てきたのだから。
「……それでも、その気持ちを受け入れることがリアにとって本当に良いのかどうか、私はまだ確信が持てない」
「良いかどうかを決めるのはお嬢様です。あなたが勝手に答えを出すべきではありません」
その言葉にテオバルトは深く息を吐き、机に肘をついて額に手を当てた。守りたいと思うのに、彼女の想いに応えるべきかを迷う自分。その矛盾が胸を重くする。
「ご自身の気持ちに気付くのが遅れるのは構いません。ですが、その揺れ動く感情がただの保護者のそれではないと、お嬢様に伝わらないわけないでしょう。お嬢様は聡い方です」
クラウスは穏やかに微笑みながらも、その声にはいつになく厳しさが滲んでいた。
「これは私の個人的な見解ですが——人は時に、自分の正しさよりも相手の幸せを優先するべき時があります。その時に掴み損ねて、二度と手に入らなくなってから後悔しても遅いのです」
その言葉は問いかけでもあり、暗に背中を押すものでもあり、そして普段の冷静な調子とは異なる、どこか遠い記憶を思い出しているような響きがあった。
テオバルトは目を細め、何かを問おうとしたが、その言葉は喉元で止まる。
クラウスはそれ以上何も言わず、短く会釈して執務室を出て行った。その背中にはほんの一瞬だけ何かを背負うような重みが感じられた気がした。
そして、部屋には再び静寂が戻った。時計の針の音が響き渡る中、テオバルトは椅子に深くもたれかかり、額に手を当てて目を閉じた。
(クラウスは公私共に信用できる人物だ。それは疑いようがない)
長年の付き合いを通じて、その誠実さは幾度となく証明されてきた。執事としてオフィーリアを支える姿も、外務省で同僚として見てきた頃と何一つ変わらない。彼なら、どんな状況でもオフィーリアを守り、支え続けるだろう。
(もしリアが彼を選ぶなら……私はその意志を尊重するべきだ。それが彼女の幸せに繋がるのなら)
クラウスが言った通り、オフィーリアには自らの未来を選ぶ権利がある。その選択に口を挟むべきではない——それがテオバルトの理性の声だった。だが、それでも胸の奥で別の声が囁く。
(しかし、その選択を、私は本当に受け入れられるのだろうか)
その想像をするだけで、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。オフィーリアが他の誰かに微笑みを向け、他の誰かと共に未来を歩む姿を想像するたび、何か鋭いものが心を刺す。嫉妬なのか、喪失感なのか、あるいはその両方なのか——答えは出ない。
眉間に力が入り、深い溜息が漏れた。机の上には山積みの書類が並び、その一つ一つが処理を待っている。だが、その中身に目を通そうとしても、文字が霞んで頭には入らない。
(リアが私に向ける感情が一時的なものか、それとも——)
彼女が自分を見つめる時の瞳を思い出す。そこには不安や迷いがあったが、それでも微かな光が灯っていた。その光が何を意味するのか、テオバルトにはまだ分からない。
(リアの人生に責任を持つ。それが私の責務だ)
その願いの中に、どれだけ自分の感情が含まれているのか。どれだけ彼女の隣にいたいという私情が混じっているのか、答えは出ない。テオバルトはまた一つ深く息を吐き、机の端に置かれた書類を手に取った。
(……いつか、この感情に向き合わなければならない時が来るのだろう)
だが、その時が来るまで——テオバルトは無意識にペンを握り締め、目前の仕事に意識を戻そうとするのだった。
懊悩する男が好きなのでたくさん悩ませてしまいました。




