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第三十二話 守るための選択

 静かな書斎の中、オフィーリアはノートに視線を落としながら、昼間にクラウスと話し合った内容を思い返していた。すでに考えをまとめたはずなのに、胸の内には微かな緊張が残っている。


「……新しい中継地には、アーデン峡谷の、このあたりが良いと思います」


 迷いを断ち切るようにそう告げる。テオバルトが微笑みを浮かべ、頷く。


「なぜそう考えたかも、教えていただけますか?」


 緊張を保ったまま、クラウスに教わった部分と自分の考えを織り交ぜて、慎重に言葉を選んで答える。

 オフィーリアの話に耳を傾けるテオバルトは、表情こそ穏やかでも、その眼差しは真剣だった。答えが正しいかどうかより、どう考え、どう導き出したのか——彼はそこに関心を持っているようだった。


「ただ、こちらの利益になるかどうかまではわかりませんでした。新しい中継地を作っても、採算が取れなければ……意味がありませんよね?」


 そう締め括ったオフィーリアの声は少し不安げに響いた。そして次の言葉を言おうかどうか一瞬躊躇った末に、素直に白状した。


「……実はクラウス様に少しご意見を伺ってしまいました。すべて私が考えたわけではありません」


 言いながら、どこか申し訳なく俯く。まるでそれがずるいことだと思っているかのように。


「それは素晴らしい判断です」


 だが思いがけず、テオバルトの声は優しい。オフィーリアが驚いたように顔を上げると、テオバルトは変わらぬ穏やかな口調で続けた。


「必ずしも一人で答えを導き出すことが正しいとは限りません。他人の意見を仰ぎ、知識を共有し、より良い結論を導く。それはむしろ非常に重要なことです」


 その言葉に、オフィーリアは心の中で安堵の息をついた。テオバルトは間違いを指摘しても、決して否定はしない。

 その賞賛はどこか大袈裟すぎると感じることもあった。それでも、彼の目に映る自分を信じてみたいと思う。


「ありがとうございます。最近、少しずつ内容が難しくなってきていて……一人で考えても、わからないことが増えてきました」


 基礎から段階的に教えてくれるクラウスと違い、テオバルトは時に少し難しい問題を投げかけてくる。その度にオフィーリアは過去のノートを見直し、書斎の本棚の前を往復する。

 庭を散歩しながら考え込んでいたら躓いて転びそうになり、ベルナには心配されたこともある。しかしオフィーリアは、この生活が嫌いではなかった。


「その難しさが、あなたが成長している証拠です。正直なところ、あなたが収益にまで言及するとは思っていませんでした。まだ触れていない部分ですから、正解に辿り着けなくて当然です」


 テオバルトの柔らかな声に、オフィーリアはまた少し気が楽になる。そうして丁寧な言葉をもらうたびに、すうっと肩の力が抜けていくのを感じる。


「……昼間の話を聞いて、自然災害の記録を少し読みました。雪崩というのは、とても恐ろしいものですね」


 オフィーリアの言葉に、テオバルトの瞳が満足げに輝いた。


「それなら今日は、その話をしましょうか」


 その提案に、オフィーリアもまた目を輝かせる。彼はいつも自分が興味を持った話題に寄り添ってくれる。それがどんなに嬉しいことか、きっと彼は知らないだろう。

 テオバルトはとても博識だった。周辺各国の歴史について語ればまるで本を誦じているかのようで、東方にある小さな島国の独自の言語まで理解していた。何よりそれを、無学なオフィーリアにもわかるように噛み砕いて解説することにも長けている。

 仕事に必要な知識なので、と彼はなんでもないことのように言うけれど、それは誰にでも簡単にできることではない。実際に彼の指導を受けてみて、心からそう思える。


「テオバルト様は本当に、なんでもご存じなのですね……。私、何も知らなくて、お恥ずかしい限りです」


 そう言って俯いたオフィーリアの声には、どこか劣等感が滲んでいる。彼の目に無学な自分を晒すことにはまだ慣れない。


「オフィーリア嬢。私とあなたの決定的な違いが何か、わかりますか?」

「……え?」


 思いがけない言葉に、オフィーリアは動揺する。そんなもの沢山ありすぎて、すぐには言葉が出てこなかった。

 だがテオバルトの声は決してこちらを責めるようなものではない。少しして彼は「年齢です」と、柔らかい声で告げた。


「私はあなたに比べて十年も長く生きています。その差を考えれば、知識の量に違いがあるのは当然でしょう」


 さらりとした口調で言い切る彼に、オフィーリアは目を瞬かせる。十年という言葉が、不意に現実感を持って胸に落ちる。


(二十八歳……言われてみれば、確かにそのくらいのお年なのかもしれない)


 彼の立ち居振る舞い、落ち着いた物腰、積み重ねてきた経験と知識——それらを思えば何も不思議ではない気がした。同時に、自分の未熟さを改めて痛感する。十八という年齢が急に幼く思えてくる。


「私が今のあなたと同じ十八歳だった時、私は士官学校を卒業したばかりでした。世間のことなど何も知らず、自分の感情にうまく向き合うこともできなかった。入隊後も、上官からよく叱責を受けたものです」

「テオバルト様は……軍にいらっしゃったのですか?」


 思わずその言葉が漏れる。この穏やかで優しい人が軍人だったという事実が、どこか信じがたかった。

 同時に少しだけ、想像する。軍服に身を包み、剣を携え、指揮を執る姿。琥珀色の瞳は冷静で、整った横顔には決意が刻まれている。凛とした立ち姿は今と変わらず、けれど、どこか今よりも厳しさを纏っている——

 国を守る方法は剣だけではない。あの言葉は単なる理想論ではなく、きっと彼自身の実体験から導き出したものなのだ。軍人であった彼が、戦いの先に何を見たのか。その答えが今の彼の生き方につながっているのかもしれない。


「私は伯爵家の三男でしたから、家督を継ぐことはできません。自分で身を立てる必要があり、そうした貴族令息は士官学校に通うのが当たり前でもあったのです」


 その言葉を聞きながら、オフィーリアは胸が締め付けられる思いだった。決して埋まらない十年という歳月の重み。

 今や侯爵位まで持ち、外務卿という地位にある人が、どうして自分のような——何の価値もない娘にここまで丁寧に接してくれるのだろう。


「軍にいたのはほんの数年です。北方の国境付近に駐在し、様々な経験をしました。それが今の仕事に役立っていると感じることも多くあります」


 彼も若い頃には苦労をしてきたのだと、クラウスの言葉が蘇る。そこに思い至った時、オフィーリアは浮ついていた自分を恥じた。必ずしも楽しい思い出ばかりではないはずだ。


「……でもやっぱり、テオバルト様は素晴らしい方だと思います。交易路について学んでみて、これを完成させるのがどれだけ大変なことか、少しは理解できた気がします」


 テオバルトの功績について学ぶ中で、北方交易路の完成がいかに重要で困難な事業だったかを知った。

 その道を切り開くには、雪崩や暴風雪といった自然の脅威を克服し、険しい山脈を越えなければならなかった。さらに、周辺諸国や地元勢力との交渉を重ね、利益や懸念を調整する必要もあった。

 当時テオバルトは外交官として、諸国の使節や有力者との話し合いをまとめ上げる一方、現場の状況にも目を配り、迅速に指示を出していたという。国と国、人と人を繋ぐために注がれたその尽力は、計り知れないものだろう。

 オフィーリアは純粋な敬意と憧れを込めてそう言った。その言葉を受けてテオバルトは驚いたように目を見開いたが、それは一瞬のことで、瞬きのうちにその表情はいつものような穏やかなそれに戻る。


「あなたにそう言ってもらえるとは、光栄です」


 だがその瞳の奥に何か揺れるものがある気がして——オフィーリアはじっと琥珀色の瞳を見つめた。


(……?)


 言葉にはならない微かな違和感が胸に生まれる。だが、その視線に気付いたテオバルトに微笑みかけられて、慌てて目を逸らす。


「あなたが知らないことは、これから学べばいいだけのことです。そして、学びたいという気持ちがあれば知識は必ず身についていきます。今、あなたがこうして努力していることこそ、誇るべきことです」

「……ありがとうございます」


 自分の努力を誇っていい。その言葉は胸に温かい明かりを灯し、歪んだ劣等感を溶かしていく。どれほど自分が未熟であると感じても、こうして彼と一緒に学ぶ時間は自分にとって何物にも代え難いものだ。

 彼と共に過ごすこの一瞬一瞬が、失われた自分の居場所を取り戻す鍵になる気がしてならなかった。


(どうか、この時間がずっと続きますように)


 そう願うと同時に、胸の奥に鋭い痛みが走る。彼にまだ打ち明けていない事実がある。その後ろめたさだけではなく、この穏やかな日々がいつまで続くのかという不安が、甘やかな時間に苦い影を落としていた。

 賤しいとされる出自。声を失くしたあの夜のこと。いつまでも隠していられないとはわかっている。けれど、その記憶は深い傷。自ら触れようとするたびに痛みが蘇り、血が流れる。あの夜の記憶はまるで凍りついた湖の底に閉じ込められたように、今も心の中で動かないままだ。


(もしもテオバルト様が、それを知った時——)


 その優しさがどう変わるのかを想像するたび、恐れと不安が胸を締め付けた。そして同時に、なぜ彼がまだ結婚の話を進めようとしないのかという疑問が、心の片隅でいつも重くのしかかっている。

 連れてこられた当初の自分の様子を思えば、新しい環境に落ち着くまでの猶予を与えられているのだと、自分を納得させることもできた。

 今の自分には、まだ何か足りないのだろうか。それとも最初から、彼にはそのつもりがなかったのだろうか。そんな思いが胸の中で渦を巻くたび、この幸せな時間はまるで砂時計のように、少しずつ零れ落ちていくような気がした。

 それでも、彼のそばにいるこの時間だけは、せめてこの温もりに触れていたい。そう願う気持ちが、後ろめたさと不安と、僅かな希望とが絡み合い、形容し難い複雑な感情を胸に巣食わせる。

 

 オフィーリアは胸の痛みを押し隠すように微笑みを浮かべた。その奥にある波立つ感情を悟られたくない。だが、ふと視線を上げた時、美しい琥珀色の瞳が不意に自分を見つめ返してきた。その瞳には、柔らかな温もりの裏に探るような鋭さを宿すことがある。


(もしかしたら、すべて見透かされているのかもしれない……)


 そう思うたびに、オフィーリアの心は激しく動揺した。それでも、彼がそのことに触れようとしない限り、もう少しだけこのままでいたい——その願いはどこか弱く、儚げで、それでも彼のそばで生きることへの渇望を秘めていた。


お読みいただいている方は彼を何歳くらいの印象でいたのか、ちょっと気になります…。

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