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第三十一話 揺れる灯火と懸念

 初めて書斎で向かい合った日から、もうしばらくの時が経った。夕食後のひとときにオフィーリアの勉強を見る時間は、途切れることなく続いている。

 テオバルトは目の前の少女へ視線を傾けた。オフィーリアは真剣な面持ちで、帳面にペンを走らせている。

 ただ言われたことを書き留めるのではなく、要点を抜き出し、自分の言葉で内容を整理しようとしていることが見て取れる。

 思っていた以上に意欲的に取り組んでいる——そのことがテオバルトには鮮やかな驚きとして胸に残り、気付けば誇らしささえ覚えていた。

 

 貴族社会においても、女性が学問を修めることを快く思わない者は未だに多い。あの王宮で、歌姫という立場にいたオフィーリアが学問に触れていたとは思えない。

 それでも彼女はここまで理解を深めようとしている。その姿にテオバルトは感動を覚えた。クラウスの力を借りながらもここまで来られたのは紛れもない彼女自身の努力の証であり、その気高さは否定されるものではない。

 しかし、オフィーリアが頼ったのはクラウスだった。自分には相談できなかったのか、それとも——答えの見えない問いを胸が胸に蟠る。

 その思考を遮ったのは、扉を叩く硬質な音だった。現れたクラウスは書斎の様子を見ると、小さく息を吐いた。

 

「大変申し訳ございませんが、お嬢様にはそろそろお休みいただければと思います」


 時計を見れば、確かに夜も遅い時刻だった。思いのほか話が弾み、つい時間を忘れていたとはいえ、庇護者たる自分が彼女をこんな時刻まで机に向かわせてしまったことを内心で苦く思う。


「今日はここまでにしましょう。あなたが真剣に取り組んでくれたおかげで、実りある時間になりました」


 そう言うと、蕾が綻ぶように、オフィーリアの表情が綻ぶ。その変化が眩しくて、テオバルトは思わず目を細めた。


 ◇


 書斎の扉を開けるたび、クラウスは密かな喜びを抱くようになっていた。

 以前は怯えたように震えているだけだった少女——オフィーリアは、こちらに気付くと読んでいた本を閉じ、すっと立ち上がって一礼する。


「クラウス様。今日もお時間をいただき、ありがとうございます」


 すらりと伸びた背筋に明るい声、表情は生き生きと輝いているように見える。その後ろに控えるベルナもどこか誇らしげだ。

 クラウスは心の中で感嘆しながら、あえて扉を開けたまま、オフィーリアの向かいに腰を下ろした。


「まずはテオバルト様からの課題について、ご意見をいただきたいのです」

「はい。どのようなものでしょうか?」

「北方交易路に新たな道と中継地点を設けるとしたらどこか、というものです。私はこのあたりから、アーデン地方かルーヴェルト地方のどちらかを通るのが最適だと思っているのですが——」


 帳面を開き、流れるように言葉を紡ぐその姿は、簡略な地図さえ前にして恥じ入るように目を伏せていた頃とは別人のようだった。

 しかしこれはまた——と、クラウスは思わず苦笑を噛み殺す。


(まさかお嬢様に、商務省の登用試験を受けさせたいわけでもないだろうに……)


 最初は可愛らしい望みだったはずが、今や一般的な貴族の教養さえ超えている。概要を押さえれば十分だと考えていたが、いつの間にか実務を想起させるほどに発展している。

 テオバルトは基本的に誰かに知識を分け与えることを好む性格ではない。しかし真剣に学ぼうとする姿勢を見せたり、教えたことをすぐ理解して更にその先へ繋げていくような優秀さを示す相手には、説明が熱を帯びる。

 しかしオフィーリアの素直で実直な姿勢を前にすれば、さらに深いことまで話したくなるのは人として当然の反応だった。


「目の付け所が良いですね。どちらも実際に、交易路の中継地として候補に上がっていた場所です」

「そうなのですか?」

「はい。結論から申し上げると、相応しいのはアーデンです。谷が多い地域ではありますが、交易路を通すには安全なルートが確保できます。一方でルーヴェルトは雪崩の危険性があります」


 オフィーリアが首を傾げるような仕草をする。エステリエ王国には雪崩が起きるほど積雪のある地域は少なく、現象そのものを知らなくとも当然かもしれない。


「雪崩とは、山に降り積もった雪が大量に滑り落ちてくる現象のことです。石造りの家でも簡単に押しつぶされてしまいます。予測も困難で、防ぐことも難しい。地図だけを見ていてはわからないことですが、自然災害は交易路の建設において避けられない考慮点です」

「……それは定期的に起こるものなのでしょうか?」

「そうですね。ルーヴェルトは特に傾斜や谷の形が雪をためやすく、雪崩を誘発しやすい地域ですから、道を通すべきではないという結論に至りました。多少遠回りになっても安心して往来できる方が長期的には利益になります。テオバルト様は、何よりもその点を重視しておりました」


 テオバルトが最もこだわったのは、交易路の安全をいかに保つかという点だった。交易路の管理権はラウレンティアが一括して保持すること、軍事利用を禁じることを譲らなかったのもそのためだ。


「ではどうして、アーデンを通る道は作られなかったのでしょうか?」


 机の上に身を少し乗り出し、澄んだ瞳をまっすぐ向けてくる。問いかけの調子に迷いはなく、学ぼうとする熱意がその仕草の隅々にまで表れていた。

 クラウスはその真摯な眼差しを受け止めながら、少し顎に手を添えた。


「アーデン領はかつて領主一族が継承問題で揉めており、統治権が不明確でした。それに加えて峡谷内で盗賊の横行が問題になっていました。ただ、これらの問題の多くは交易路の開発を進める中で整理され、今ではほとんど解決されています」

「そうだったんですね……つまり、現在ではアーデン峡谷が現実的な選択肢になり得る、ということですか?」


 「その通りです」と答えながら、彼女の理解の早さにクラウスは密かな誇らしさを感じていた。

 しかし同時に、その熱心さの源はどこにあるのかと、あらためて問いかけずにはいられなかった。まさか本当に官僚を目指しているわけではないだろう。


「……お嬢様、それほどまでに勉学に励まれる理由はなんですか?」

「理由……ですか?」


 小首を傾げる仕草には幼さが残るが、その青灰色の瞳には確かな決意が宿っている。クラウスは静かにその答えを待った。


「……テオバルト様が築かれたものを、きちんと理解したいんです」


 その声には表面上の確かさがあった。だが、その瞳の奥に揺れる迷いを見逃すことはできない。クラウスは静かに彼女の続きの言葉を待った。

 言葉を選ぶような間があり、オフィーリアは視線を落として続けた。


「そうすれば私も、少しは変われるのではないかと思って」


 クラウスはその一言に、彼女の本心を見た気がした。交易路についてはすでに十分理解しているはずだ。それでも学び続けるのは、知識を得ることが目的ではなく、その先にある「変わること」を求めているからなのだろう。

 自分の存在価値を見出したいーそんな切実な願いが、彼女を机に向かわせているのだ。


「もちろん、まだまだ知らないことばかりですけれど……でも、それに気付けたのも、テオバルト様やクラウスのおかげです」


 そう言って微かに笑ったその表情には、どこか儚さがあった。まるで、この時間がいつか終わってしまうことを予感しているかのように。

 クラウスはふっと視線を遠くへと向けた。


(……お二人の想いは、今はわずかに噛み合っていない)


 彼女は知識を得ることに夢中になっている。その瞳の輝きは確かに美しい。けれど、その情熱の根底にはただの知的好奇心とは違う何かが潜んでいる。

 己の不安を埋めるように、学びという形で何かを必死に求めているのではないか——クラウスの胸に、そんな懸念が忍び寄る。


 理知的で冷静な主人が、彼女に対してだけは無自覚に特別扱いをし、その存在を気にかけている。結婚が建前だという事情はもちろん理解しているが、その眼差しに秘められた想いが、ただの庇護欲ではなく、愛情に根ざしたものだということは明らかだった。

 なぜそこまで慎重になっているのだろう。どうしてこうも自分の感情に向き合おうとしないのか。

 長年の付き合いがあっても、クラウスにはその理由が掴めなかった。

 

 そしてもう一つ、クラウスの胸に深く刻まれた思いがある。二人の関係は彼のほうが動かなければ、永遠に止まったままだということ。

 彼女はテオバルト様の隣にふさわしい人間になろうと懸命に努力を重ねる。けれど、決して自らその想いを口にすることはない。

 彼女は「選ばれる側」として佇み続け、テオバルト様がその気持ちを認め、手を伸ばさなければ、二人の間に本当の意味での絆は生まれないのだ。

 どちらも相手を想う気持ちは確かにある。けれどその想いは、わずかに異なる方向を向いたまま、まだ交わることができずにいる。


(このままでいいはずがない)


 クラウスは胸の奥で渦巻く心配を押し殺しながら、それでも彼女の学びを支え続けることを心に誓った。そして、この件について向き合うべき時が近づいていることを、強く感じていた。

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