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第二話 歌えない鳥

 出立の前日、オフィーリアはわざわざ離宮にまで足を運んできた政務官達に囲まれていた。

 離宮の一室、長机に広げられた大きな地図には、エステリエ王国を中心にこの大陸の国々が描かれている、らしい。

 地図の見方など知らないオフィーリアには、それらの線や記号が何を表すのかもわからない。その無知さえも、自分の価値のなさを証明しているかのようだった。

 オフィーリアは机の端に座り、自分の存在を消そうとでもするかのように体を縮こめていた。ずらりと居並ぶ政務官たちを直接見ることはできず、ただ彼らの声を聞き流すばかり。彼らの声より、自分の心臓の音の方が大きく聞こえる。


 織物や葡萄酒——エステリエの特産品について、彼らはいかに優れているかを自慢げに語る。

 その声音は、かつてオフィーリアの歌声を褒め称えた時と同じような熱が込められている。その皮肉な類似に、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。

 それらは北方の市場でより高値で売れるが、しかしそこに至るまでには数々の困難があった。

 険しい山脈を越えるのは命懸けだ。山賊が跋扈し、悪天候が行く手を阻む。例え運べたとしても、高価な葡萄酒が劣化し、織物が汚れることも珍しくない——その言葉一つ一つが、これからの未来を暗示しているかのようだった。


 更に、北方からの軍事圧力についても彼らは触れた。法外な上納金を要求され、時に安売りを強要されることもあった。それらはエステリエのみならず、周辺国のすべてが頭を悩ませる問題だった。


「しかし、それを一変させたのがラウレンティアの外務卿です」


 その言葉にわずかな希望を見出そうとした自分が、痛ましいほど滑稽に思えた。


 シュルテンハイム侯爵テオバルト・グレイヴ・レーヴェンハースト。

 なんて仰々しい響きだろう——しかしその名前が上がると、政務官たちはその功績を誇るように語り始めた。


「彼は北方交易路を完成させた功績として侯爵位を賜り、若くして外務卿の地位に上り詰めた秀才です。我が国との取引で示された手腕も目覚ましく、ラウレンティア大公からの信任も厚い」


 一見すると純粋な称賛に聞こえるその言葉の端々に、どこか刺々しいものを感じた。

 彼が指揮を執り整備された北方交易路は、悪天候でも通行可能な堅牢な街道だった。宿場が要所に設置され、自国の騎士による護衛体制も整えられた。もう山賊に怯える必要もない。北方の軍事大国にも一矢報い、誰も交易を脅かすことはできなくなった。

 交易路は、使用料を払ってもあまりあるほどの利益をエステリエにもたらした。


 彼らの話す内容はまるで遠い世界の出来事のようだった。政務や経済について詳しく知るはずもなく、王宮の講師から教えられたのは歌姫としての振る舞いに必要な礼儀作法と言葉遣い程度。

 けれど、話の端々に感じられる苛立ちや嫉妬には薄々気づくことができた。格下だと思っていたラウレンティア大公国が思いがけず交易の要になったことを、彼らは内心では認めたくないのだ。

 そして、オフィーリアへと話題が移る。


「……そのような人物がどうしてお前のような娘を望んだのか、理解に苦しむ」


 侮蔑を隠そうともしない声に、視線に、オフィーリアは俯いたまま震える手で自分の膝の上のスカートをぎゅっと掴んだ。その圧力が強まるほどに、オフィーリアの中の何かが壊れていくような気がした

 彼らだって——かつては歌を賛美してくれた。歌の合間に飲み物を用意し、喉を労るよう気遣ってくれた。『外交の成功はすべてあなたの歌のおかげです』という言葉をくれた。


「あちらでは、お前のような娘がどれほど役に立つか試されるだろうな」


 まるで家畜の品定めをするような残酷さで。


「声が出ないのなら、せめて可愛らしく愛想良く振る舞うように」


 かつて歌姫を褒め称えた同じ口からは、今は軽蔑の言葉しか出てこない。 


「交易路の使用料を安くさせるくらい、お前が上手く媚びればできるはずだ」


 男たちの低い笑い声が小さく響いても、オフィーリアはその場で耐える以外になす術がなかった。

 その言葉の数々は、もはや自分に向けられたものではなく、ただの雑音でしかない。けれど、その雑音が胸の奥を蝕むような痛みを残していく。まるで毒が少しずつ体内に染み込んでいくように。


(……きっと私も葡萄酒と同じなのね)


 熟成されることもなく、ただ消費され、価値を失った途端に捨てられる。そんな存在だということを、彼らの言葉が改めて教えてくれる。

 歌えなくなった自分には、もう何の価値もない。その言葉はまるで、胸の奥に静かに広がる暗闇のようだった。


 離宮を出られるということすら、希望にはならなかった。ただ、この牢獄から別の牢獄へ移されるだけのこと。

 声を失ったあの夜に、オフィーリアの人生はもう既に終わっている。その認識はまるで永遠に解けることのない氷のように、誰にも気付かれないまま、心の中で凍り付いていた。

 

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