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第二十九話 見つめる瞳

 食堂には静かな灯りがともり、食器の触れる音だけが穏やかに響いている。オフィーリアは食事を楽しむ余裕を保ちながら、対面のテオバルトに一瞥を向けてはすぐに視線を落としていた。その度に庭で過ごした時間が蘇り、胸が高鳴った。

 テオバルトはいつも通り落ち着いた様子で、丁寧にカトラリーを操っている。夕陽の残照が窓から差し込み、彼の金色の髪が仄かに輝いて見える。立ち居振る舞いの一つ一つに気品が溢れ、その佇まいは見惚れてしまうほどだった。

 つい、もう一度だけと視線を上げた瞬間、琥珀色の瞳が真っ直ぐに自分を捉えていた。


「……!」


 思わず肩が跳ねる。テオバルトの口元が緩み、その表情にはどこか意地悪に思えるほどの余裕が滲んでいた。まるで全てを見透かしているかのように。

 オフィーリアは慌てて視線を皿に落とす。けれど耳まで赤くなるのを感じて、余計に恥ずかしくなってしまう。まるで子供が、ばれてしまった秘密を隠そうとしているみたいで。


「どうかなさいましたか?」


 いつもと何も変わらない落ち着いた声音に、オフィーリアは恐る恐ると顔を上げてしまう。

 テオバルトの表情は優雅そのものなのに、瞳の奥には確かな笑みが宿っている。オフィーリアの心臓は尚も忙しなく脈打つ。


「い、いえっ、なんでも……」

「先程から、何度もこちらをご覧になっているようでしたので」


 ああ、全部見られていたのだ。その事実に頬が火照り、言葉も上手く繋がらない。手元のナプキンを握る指先に力が入る。

 いつもは紳士的なのに、こんなふうに追い詰めてくるなんて意地悪な人。けれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。むしろ、彼がこんな表情を見せてくれることを、どこか嬉しくも思う。


「失礼。ご不快な思いをさせてしまったなら申し訳ありません。私も折に触れ、あなたの様子を拝見させていただいております」


 その言葉には、どこか甘やかな色が滲んでいた。まだ顔が赤いまま、オフィーリアは小さく息を吐く。


「あなたは食事の所作は、とても綺麗です」

「そう……でしょうか……?」


 テオバルトの言葉に、オフィーリアは驚きながらも首を傾げずにいられない。確かに王宮の教師達に厳しく教え込まれた作法ではあるものの、褒められるほどのものだとは思えなかった。


「立ち姿などを見てもそう思います。細やかな動きにも品があり、優雅ですね」


 ほんのわずかな、戸惑いも覚える。まるで別人の話を聞いているよう。

 しかし、テオバルトの目に映る自分はそんなにも素敵な人なのだろうか。一拍遅れて訪れる照れ臭さと嬉しさに、視線は瞬きを繰り返しながら手元に落ちてしまう。

 彼の言葉はいつも優しく寄り添うようで、空っぽの心を満たしてくれる。でもそれは同時に、胸の奥の引け目を疼かせもした。

 彼が褒めてくれるそれらは、歌姫に必要だったから身に付けたもの。賛辞を向けられるなら、文字の読み書きすらできなかった孤児を淑女に仕立て上げた教師達であるべきだ。

 かつての歌姫どころか今ここにいる自分さえも本当の自分ではないのに、果たしてその賞賛をどう受け止めていいのか、わからない。

 きっとテオバルトに他意はない。捻くれている自分に問題があるのは明らかで。そんな想いから耳を背けたくて、オフィーリアはぎこちなく話題を変えた。


「あの……最近、とてもお忙しいとお伺いしました。いつも夜遅くにお帰りになられていますよね」


 正しくは『最近』ではなく『ずっと』と言うべきかもしれない。早朝のサロンで顔を合わせたのは、あの一度だけ。屋敷内で姿を見かけることはあっても、気付いたらいつの間にか公務に出ている。どこで食事をして、いつ眠っているのだろう。


(代わりのいないお立場だから、難しいのかもしれないけれど……)


 テオバルトはふと目を細め、微かな苦笑を浮かべる。 


「そうですね。やるべきことが多くて」


 その立場や肩書を考えれば、多忙もやむを得ないのかもしれない。しかしこの屋敷に来てしばらく経つのに、テオバルトが身体を休めているところを一度も見たことがなかった。

 今日こうして一緒に食事できることは、まるで夢のよう。けれどそれとは別に、彼を案じる気持ちがオフィーリアの表情を曇らせる。


「しかしあなたにそんな顔をさせるようでは、いけませんね」


 思いがけない言葉に、オフィーリアは驚いて顔を上げる。


「少し働き方を変えてみるのも良いかもしれないとは、思っています。早く帰ればこうした時間が取れますから」


 その言葉の意味することに気付き、オフィーリアは頬を紅潮させながら言葉を探した。二人で食事を共にする時間が増えるのかもしれない——そんな予感が、胸を熱くする。


「できることなら、もっと多くの学びの時間をご一緒したいと思っています」


 庭での記憶が蘇り、オフィーリアの心臓が跳ねる。


「私もあなたの学びの手伝いができればと。毎日とはいきませんが、夕方から夜にかけての時間に。クラウスの助力は得られているようですが、私からもお話しできることがあるはずです」


 どこかで予想していた言葉なのに、実際に耳にした時の胸の高鳴りは、抑えることができない。庭で垣間見た新しい世界への扉が、また一つ開かれようとしている。それも、この人の手によって。

 その先には、きっとまた今までとは違う景色が広がっているはずだ。そして、テオバルトという人を、もっと近くで知ることができるのかもしれない。

 その期待に胸が震える一方で、言葉にできないような不安も胸を揺らす。

 迷う視線は自然と、壁際に控えるベルナへと向かう。ベルナは無言のままそっと微笑んだ。きっとオフィーリアの心の中で揺れているものを、彼女は見透かしている。


(テオバルト様は、どうなのかしら……)


 彼は優しく、学問に対して誠実な人だから、オフィーリアの学びたいという意思に寄り添ってくれている。きっと……それ以上の他意はない。そう自分に言い聞かせながら、おずおずと視線を正面に戻し、テオバルトへ向き直る。


「……はい。よろしくお願いいたします」


 そう告げたオフィーリアに、テオバルトは満足そうに頷く。薄い唇が柔らかな弧を描いていた。


「では、後ほど書斎でお待ちしております」


 いつも通りの静かな低い声。けれど心のどこかで嬉しさが込み上げて来るのを感じ、オフィーリアもまた密やかな喜びを口元に宿した。

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