第二十八話 夕暮れの庭
柔らかな夕陽が庭を染めている。穏やかな風が葉を揺らし、鳥のさえずりが微かに耳に届く。静寂と呼ぶには少しだけにぎやかな時間だった。
そんな中で、オフィーリアは視線は手元の帳面と地図に落ちていた。
午前中に教わった内容の復習も兼ねて、内容を整理しながら帳面にまとめていく。その作業は思いのほか楽しいもので、集中するとつい周囲に意識を向けることが疎かになる。
ふと湧いた疑問を書き留め、新しい本を手にしたところで、オフィーリアはようやく物音に気付いた。
靴底が石畳を叩く男。規則的に響くそれはオフィーリアのすぐそばで止まった。
「随分と集中されていましたね」
空気をほんのわずかに揺らす、低い声。夕陽を背にしたその姿は、逆光に影を落としているのにどこか神秘的で、オフィーリアの胸に不思議な痺れをもたらす。
「あ……」
驚いた声が漏れた瞬間、手にしていた本が滑り落ちる。思わず身を乗り出して拾おうとするけれど、それより早くテオバルトの手が本を拾い上げる。その瞳が、素早く表紙を撫でた。
「新しい本がほしいとおっしゃっていましたが……こういった分野に興味を持たれたのですね。新しいことを学ぼうとされる姿勢、とても素晴らしいと思います」
その柔らかな声にオフィーリアは恥ずかしさで顔を伏せる。
即座に頭をよぎったのは、クラウスと交わした約束。
少しずつ知識を増やしている自覚はある、けれどもそれが自信になっているかと問われると、わからない。少なくともテオバルトの前で胸を張れるほどではないことだけは確かだった。
しかし彼の前で、慌てて取り繕った言葉などきっと何の意味も持たない。躊躇いながらも、オフィーリアは心を決めて口を開いた。
「北方交易路のことを、理解したくて……。す、少しだけ、ですが……」
「それにしては、かなり熱心に取り組まれているように見えます」
テオバルトの視線が、テーブルの上で開かれたままになっている帳面に向けられる。
細やかな文字で記された交易路の要点、各地の特産品や流通の仕組み。それらの間には幾つかの疑問が書き込まれている。テオバルトはオフィーリアに視線を戻し、穏やかに問いかける。
「拝見してもよろしいですか?」
自分が学んでいる内容がどれほど幼稚に映るか、想像するだけで込み上げてくる不安を胸に押し込め、オフィーリアはそっとうなずく。
テオバルトの指先が紙の端を軽く押さえ、視線が流れるように文字を追っていく。次の瞬間、彼が小さく息を吐いたのを感じて、オフィーリアは思わず身を縮めそうになった。
呆れられているのかもしれないと考えると、喉の奥が渇くようにひりついた。恥ずかしさと緊張に押し潰されそうになる中、穏やかな声が降り注ぐ。
「丁寧に、わかりやすくまとめられています。この内容をここまで整理するのは大変だったことでしょう」
大変どころか、一人では不可能だった。彼の書斎にある本はどれも専門的で今のオフィーリアには到底理解できないものばかり。
初学者向けの本をクラウスに手配してもらい、ようやく自分で読み進められた。そのことも、黙っているわけにはいかなかった。
「実は……クラウス様に、少しずつ教えていただいていました。私が何も知らないばかりに、お手間をとらせてしまって……」
「彼があなたの助けになってくれているなら、なによりです」
言いながら、テオバルトはゆっくりと片膝を付いた。目線の高さが揃い、それが絡んだ瞬間、胸の奥が何か音を立てた気がした。目が逸らせない。
まっすぐ通った高い鼻梁に、緩やかに弧を描く薄い唇。金褐色の髪は夕陽を浴びてよりその色を濃くし、琥珀色の瞳には優しさと、それだけでは語れないような、もっと奥深いものが滲んでいる。その瞳に映る自分の姿に、息を呑む。
近くで見つめる彼の顔には、朝の柔らかな表情とは違う凛とした美しさがあった。その美しさが、まるで胸を締め付けるようで。オフィーリアは両手を胸の前で握りしめる。
「何かを学び、理解しようとする姿は、ただそれだけで尊いものです。あなたが学びたいと願い、そのために周囲の協力を得て真摯に向き合っていることを、とても誇らしく思います。……その努力を、どうして隠そうとするのか。それだけが気がかりです」
どこか真剣味を帯びた瞳に揺れる光は、まるで隠された真実を探るよう。けれど彼の言葉は責めるものではなく、ただ心からの問いかけに思える。
オフィーリアは、迷いながらも震える唇を噛んだ。「それは……」と呟きながら、はっきりと答えられない。
きっと彼が無知なオフィーリアを見下したり、蔑んだりすることはない。心の奥底では分かっていても、そんな自分を知られることが怖かっただけだとは、言えなかった。
その様子を見て、テオバルトはふっと表情を緩めた。立ち上がると再び帳面を開き、その一点を静かに指し示す。
「……この部分、あなたは『冬でも使いやすい道だから』と記していますが、それだけではありませんよ」
オフィーリアは息を呑んだ。否定されるのだろうか。こんな考察は浅はかだったと、笑われてしまうのだろうか。指先がショールの端をきゅっと掴むも、彼の声はあくまで穏やかだった。
「交易路には、もっと多くの物語が隠されています」
例えば——そう言いながら、長い指先が迷うことなく地図の上を滑る。
「確かにここは比較的平坦で、雪も少ない。しかしそれだけを見て道を決めることはできません」
通行のしやすさだけではない。一本の線の向こうには、幾重にも重なり合う思惑があるのだという。
険しい山道でも、それを補うだけの価値があれば人々は道を開く。逆に、どれほど平坦な道でも統治者の同意がなければ通ることはできない。
地図を眺めるだけでは見えない政治的な駆け引き、そこにある人々の暮らし。それをどう発展させていくか。それらを繋ぎ合わせてはじめて道が生まれるのだと、テオバルトは静かに語る。
オフィーリアはその話に聞き入っていた。自分が見ていたのは地図に描かれた線の表面だけだった。けれどその向こうには、もっと深い事情が隠されているのだと気付く。開かれた扉の先には、まだまだ知らない世界が広がっている。
「……私、知らないことばかりです」
その事実を、オフィーリアは静かに受け入れた。それはもう怖いことでも隠すことでもない。むしろ、その向こうに広がる世界への期待に、胸が震える。
「知らないことは恥ではありません。知りたいと思い、知ろうとすることが大切なのです。今のあなたのように」
テオバルトの声は優しく、けれど確かな光を宿している。
「……もっと、知りたいです」
そう口にした瞬間、胸の中で小さな火が灯った気がした。これまでに感じたことのない、不思議な高揚感。
恥ずかしさも躊躇いも、全てが溶けていくような感覚。ただ純粋に、この人と共に見る世界に触れたいという想いだけが、静かに、けれど確かに広がっていく。
「良い心掛けです」
テオバルトは満足そうに目を細める。その瞳に映る自分は、きっといつもより少しだけ輝いているに違いない。
オフィーリアが新たな疑問を口にしようとした時。新たな足音の存在に二人は同時に顔を上げた。
近付いてきたのはベルナだった。こちらを見て、焦茶の瞳をほんの少し丸くしながら、食事の用意が整っていることを告げる。
「そのためにあなたを呼びにきたのに、つい時間を忘れてしまいました。今日は公務が早く終わりましたので、一緒に夕食をいただければと思うのですが、いかがでしょう?」
「……はい」
その申し出と共に差し出された手を取る。それが自分を傷付けることはないとわかっているのに、なぜか緊張で心臓が早鐘を打ち始めていた。
テオバルトがほんの少しだけ手に力を込めるのが合図のように、オフィーリアは椅子から立ち上がる。
夕暮れの庭を並んで歩きながら、繋がれた手がいつまでもこのままであればいいと、そう思う気持ちを抑えることができなかった。




