第二十七話 優しさの在処
それからも、日中クラウスの手が空いている時には書斎やサロンの一角で彼から教えを受けるようになった。
地理や交易についての本を何冊か選んでもらい、一つ一つを丁寧に読み進める。気になる箇所には付箋を貼り、その疑問を少しずつ解いていく。
クラウスの説明は辛抱強く、決して急かすことはない。少しずつ、ゆっくりと、基礎的な部分から順番に教えてくれた。
「ここは一見すると複雑に見えますが、こう考えるとわかりやすくなります」
「あぁ、なるほど、そういうことなんですね……」
先程の解説をノートにまとめながら、オフィーリアはずっと抱えていた疑問を思い切って口にした。
「クラウス様はとてもお詳しいのですね。外務省にお勤めだったと伺いました」
「はい。テオバルト様が外務卿になられた時に辞しました。今は内外の補佐として、こき使われております」
柔らかな笑みを添えた軽やかな口調に、オフィーリアは思わず笑みを浮かべる。最近、クラウスは時折こうして砕けた調子で話してくれることが増えた。
銀髪に蒼い瞳という色合いはどこか硬質で近寄りがたい印象を与える。けれど、その立ち振る舞いの一つひとつから感じられるのは、驚くほど穏やかで優しい温もり。
それはあの寒空の下で凍えるような心細さに震えていた時から、すでに感じ取れていたはずなのに。その優しさに背を向けるような態度を取ってしまったことを、今でも後悔している。
オフィーリアが膝の上でそっと指を握り込んだ時、視界の端で、ベルナが静かにワゴンを引き寄せる。
琥珀色の液体がカップに注がれ、穏やかな茶葉の香りが広がっていく。その香りは張り詰めた空気をそっと溶かし、凝り固まった思考を優しく解いていく。
ベルナは当たり前のように二人分の紅茶を用意し、クラウスも躊躇うことなくカップを受け取る。
「では、失礼して。お嬢様もどうぞお召し上がりください」
そのまま紅茶を口に運ぶクラウスの姿を見て、オフィーリアは思わず瞬きをする。
侍女であるベルナが控えているのに、彼は当然のように紅茶を口にする。それは不作法でも不遜でもなく、あまりにも自然な振る舞いだった。彼は、この屋敷に仕える人々の中で特別な立場にあるのだ。
穏やかな声音に促され、オフィーリアも自分のカップをそっと両手で包む。紅茶の熱が指先からじんわりと伝わり、それだけで心が少し落ち着く気がした。
お互いに紅茶を飲みながら、しばらく静かな時間が流れる。
だが、オフィーリアの胸には一つの言葉がずっと引っかかったままだった。ずっと言わなければならないと思っていたこと。
おずおずとカップを置き、オフィーリアは意を決したように顔を上げる。
「クラウス様、ベルナ、あの……」
名を呼んだ瞬間、クラウスがカップを傾ける動きを止める。蒼い瞳が、静かにオフィーリアを見つめた。
その視線に軽く息を飲みながら、オフィーリアは言葉を続けた。
「わ、私をエステリエまで迎えにきてくださった時、あの時、ずっと、失礼な態度を取っていて……本当に、ごめんなさい」
それを言葉にするだけで、胸がじくじくと傷んだ。
何故あれほどの恐怖心を抱いていたのか——その根源に意識が及んだ瞬間、わずかに声が震える。
「そのことを気に病む必要はありません。あの時のお嬢様がどれだけお辛い状況にいらしたのか、我々にも少しは想像がつきます」
クラウスの言葉は温かく、責めるような響きは一切なかった。
言い終えてから、クラウスはベルナへ視線を投げた。オフィーリアのそばに控えていたベルナはそっと笑み、言葉を添える。
「その通りです。お嬢様がご自分を責める理由なんて、どこにもありません」
オフィーリアは膝の上でそっと両手を握り締めた。向けられる優しさに見合うだけの価値が自分にあるとは、まだ、どうしても思えない。
「テオバルト様も、よくおっしゃいますよ。『誰もがその時々の精一杯を尽くしている。それ以上は求めるべきではない』と」
クラウスの口からその名が出ると、オフィーリアの瞳が微かに揺れた。朝方の微笑みがそっと胸をよぎり、一瞬だけ胸の奥がきゅっと縮むような感覚があった。
それを見て、クラウスは小さく微笑む。
「テオバルト様も、様々なご苦労をされてきた方です」
クラウスの声は穏やかで、どこか懐かしむような響きがあった。
「そして、そういった過去を経て、今があるのです。ですが、あの方が最も大切にしているのは現と未来です。お嬢様がどう歩まれるかも、きっと同じでしょう」
クラウスの言葉に、オフィーリアは少しだけ救われたような気がした。
自分も少しずつ前を向いていかなければいけないと、思う。だが同時に、進んだ先に何があるのだろうと考える。
どの道を歩んだとして、過去が消えるわけではない。果たして自分はどこに行き着くのだろう。いつまでこの場所に留まることが許されるのかさえわからないのに。
「……努力すれば、私も、変われるでしょうか」
ぽつりと呟いた声は誰にも届くことなく、そっと空気に溶けていく。




