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第二十六話 ここから、一歩ずつ

 勉強をはじめて数日が経った。

 地図の上に描かれた記号や線が、オフィーリアの中で少しずつ物語を紡ぎはじめていた。クラウスの丁寧な説明に導かれ、見慣れない都市の名前たちが、まるで新しい世界への扉を開くように、その意味を見せ始める。

 知らなかった世界が少しずつ広がっていく喜びは、思いがけない贈り物のようだった。


「交易路は、ただ物資を運ぶ道ではありません。ラウレンティアと北方諸国を繋ぐ命脈であり、文化と知識が行き交う道でもあります」


 昨日に続いて、クラウスは交易路の概要について穏やかに説明を続ける。その言葉に、オフィーリアは自然と目を凝らした。知らない世界を垣間見るような感覚に、心が引き寄せられていく。


「どうしてこのルートなのでしょうか? こちらのほうが近いように見えます」


 地図上の一点を指差しながら、オフィーリアは素直な疑問を口にした。クラウスは蒼い目を細め、優しく微笑む。


「良い質問ですね」


 クラウスの説明は、地図上に描かれた交易路に新たな意味を与えていった。積雪の少ない安全な経路を選び、重要な物流拠点を結ぶように設計された道。それは単なる線ではなく、テオバルトの深い洞察と周到な計画の結晶だった。

 その説明に耳を傾けながら、オフィーリアは地図の上を走る線をそっと指でなぞる。エステリエの葡萄酒や織物が、この道を通って北方の市場へと運ばれていく様子が目に浮かぶ。

 雪深い山々を超え、危険な街道を通るよりもずっと安全で確実な道筋。それは人々の願いが形になったよう。

 けれそれを作り上げるまでの道のりは、決して平坦ではなかったという。特に安全を守る問題では、北方連合との間で深い溝があった。

 警備権を主張する北方側と、ラウレンティアの意向。その溝を埋めるため、テオバルトは幾度となく足を運び、互いの利益と信頼を守る道を探り続けた。


「テオバルト様にとって、交易路の管理権と警備権はラウレンティアが単独で持つべきものでした。それは譲れない一線だったのです」


 クラウスの声には、どこか懐かしむような、しかし誇りに満ちた響きがあった。

 アルスガード公国を中心とした北方連合の存在は、オフィーリアも以前から耳にしていた。彼らは時に軍事力を背景に南方に圧力をかけてくるのだと。

 その記憶が胸をよぎり思わず質問を返したオフィーリアに、クラウスは「お嬢様のお耳に入れるようなことではありません」と言い切った。

 地図に目を落とし、オフィーリアは黙って考え込む。北方連合——アルスガード公国を中心とした国々の連合体。その存在も、テオバルトとの関係性も、まだ完全には理解できない。けれど、この一本の線の向こうには、彼が積み重ねてきた数えきれない努力と決意があったのだと、確かに感じ取れた。


 その話を聞いた時、警備権にこだわった理由が少し理解できた気がした。

 テオバルトは単に道を作っただけではない。それを守り、安全な交易を保証する仕組みまで築き上げた。その事実に気付いた時、オフィーリアの胸に温かなものが広がった。


「各国の利害が複雑に絡み合う中で、誰もが納得できる形を見出すのは並大抵のことではありませんでした」


 その言葉の重みを、オフィーリアは静かに受け止める。まだ完全には理解できないことも多いけれど、この一本の線の向こうには、彼が積み重ねてきた数えきれない努力と決意があったのだと、確かに感じ取れた。


「もしお嬢様がさらに詳しく知りたいと思われるのでしたら、テオバルト様に直接お願いされてはいかがでしょう? きっと喜んで教えてくださいますよ」


 その言葉の意味を理解するまでに、少し時間がかかった。概要を学び終え、これからさらに深く知りたいと思っていた矢先のこと。確かにクラウスの役目はここまでなのかもしれない。

 オフィーリアは驚いたように顔を上げたが、すぐに視線を落とした。


「それは……」

「お嫌ですか?」


 膝の上でそっと指先を握り込む。

 自分でも矛盾していることは分かっていた。もっと知りたい、理解したいと願いながら、最も近くにいるはずの人には尋ねられない。しばらくの沈黙の後、オフィーリアは意を決したようにぽつりと口を開く。

 

「失望されるのではないかと、思って」


 かつて歌姫として過ごした日々。あの王宮で与えられる知識はどれも歌姫の体裁を整えるためだけのもの。歌うことだけが存在意義だったオフィーリアには、それだけで十分だった。

 歌えなくなり、ようやく自分以外に目を向ける余裕を持てるようになった今になって、それ以外の何も持っていない自分に気付かされた。

 でも、テオバルトは違う。この書斎に並ぶ本の一冊一冊が、彼の努力と知識の証。そんな彼の前で、自分の無知をさらけ出すなんてできるわけかわない。


「クラウス様。もう少しだけ、私に教えていただけないでしょう

「もちろんです。私でよろしければお手伝いいたしましょう。ただひとつだけ、約束していただきたいことがあります」


 クラウスの声が静かに響く。


「お嬢様が、もう少しご自分に自信を持たれるようになられたら——その時には是非、学びたいことがあるとテオバルト様にお話しされてはいかがでしょうか。お嬢様の想いを、きっと誇らしく思われるはずです」


 その言葉に込められた親しみと敬意、そして心からの励ましが胸に染み入る。オフィーリアは手元の地図に目を落とした。この一本の線に込められた彼の想いを、少しずつでも理解していきたい。

 テオバルトが自分を誇らしく思う——そんな未来が本当に訪れるのだろうか。でも、今はまだその一歩を踏み出す勇気はない。まずは、自分にできることから。


「……わかりました。その時が来たら、きっと」


 小さな声でそう答えると、クラウスは微笑んだ。

 窓から差し込む陽光が、その表情を柔らかく照らす。まるでオフィーリアの決意が、いつか確かな光となることを信じているかのように。

  

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