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第二十五話 知ろうとする勇気

 書斎の重厚な扉は、しかし見た目に反して静かに開いた。ひやりとした空気が肌に張り付くように頬を撫でるも、乾いた紙の香りにほんの少しの懐かしさも感じさせる。

 落ち着いた色調の部屋の一角には、使い込まれた黒の革張りの椅子と、そこに寄り添うように置かれた大きな机。その佇まいは、ここがただの飾りの部屋でないことを語っていた。

 壁を覆うように聳える背の高い本棚は、まるで知識の塔のよう。整然と並ぶ革張りの背表紙には、歴史や経済、地理——予想通り、難しそうな文字が並んでいる。それらはどこか威圧的で、まるで気安く触れられることを拒んでいるかのようにさえ思えた。

 

 けれどこの書架が、彼の知識そのものなのだ。そう思うと、オフィーリアの意識は自然と惹き付けられる。

 深くは考えずに、オフィーリアは手近な一冊を引き抜いた。手に感じる重量感に、思わず息を呑む。背表紙には細かな擦り傷があり、頁には付箋や書き込みが残されている。

 その文字の一つ一つに彼の存在が刻まれているように感じられた。几帳面な筆跡、ところどころ勢いを帯びた走り書き。時には疑問符が並び、それはテオバルトが多くの時間をかけてこの机に向かい、考え、悩み、理解を深めていった証。

 一冊の本を開いて閉じ、また別の本を手に取る。どの本を開いても、その文章はまるで異国の言葉のよう。読めるはずの文字がまったく意味を成さない。

 自分がいかに何も知らないか、無知の痛みが胸を刺す。


(こんな難しい本を、テオバルト様はきっと当たり前のように読まれるのでしょうね)


 その跡を指でなぞりながら、オフィーリアはテオバルトの横顔を思い浮かべる。机に向かう彼はどんな表情をしているのだろう。

 きっとその時ばかりは、いつも向けてくれる穏やかな笑みが消えて、真剣な眼差しがあるに違いない。

 朝食の席で見せた微笑み。窓辺で交わした言葉。追いかけてきたオフィーリアに気付いて振り返った時、その口元がわずかに笑んだこと。

 そのどれもが大切な思い出として胸に刻まれている。けれど、それと同時に胸を締めつけるような思いも募っていく。彼がどれだけの功績を残し、どれほどの重積を担っているのか、自分は何も知らないのだ。


 北方交易路——その言葉が不意に頭をよぎる。離宮で聞かされた時は、それが何を指すのかさえ理解できずにいた。

 きっと彼を語る上で欠かすことのできないものなのに、オフィーリアは何一つとして知らず、これまでそのことに疑問さえ抱かなかった。

 そばに控えていたベルナに、オフィーリアはおそるおそる声をかけた。


「北方交易路について学ぶには……どうしたらいいのかしら」


 べルナは少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに表情を柔らかくする。少し考えるように視線を動かし、静かに続けた。


「詳しくお知りになりたいのでしたら、クラウス様に伺ってはいかがですか? 以前は外務省にお勤めで、交易路の開拓にも関わっていらっしゃったはずですよ」

「クラウス様が?」


 その言葉に、オフィーリアは少し驚いた表情を浮かべた。冷静沈着で鋭い眼差しの執事——彼にそんな過去があったなんて。

 ベルナに「お呼びしましょうか?」と問われて、オフィーリアの心に迷いが生じる。しかし、どうしても誰かの助けが必要だった。迷いながらも頷くと、ベルナは優しく微笑み、部屋を出て行く。


 一人残された書斎の中、オフィーリアの視線は自然と本棚の端から端までを滑り始める。どれもこれも分厚く、手に取るだけで気後れしてしまいそうになるものばかりだ。

 でもテオバルトはきっとこのすべてを理解しているのだろう。そう考えると、改めて尊敬の念が湧く。

 本棚の端まで視線が巡ったところで、ふと気付く。部屋の隅、本棚に半ば隠れるように置かれた木製のケース。それは見慣れない形だったが、記憶がその用途をすぐに思い出させた。


(これは……バイオリン、よね?)


 書物とはまた異なる存在感を放つそれに歩み寄り、オフィーリアはケースをそっと指先で撫でた。重厚な木目の表面は丁寧に磨かれ、柔らかに光を受けている。長い年月が経っているにもかかわらず、持ち主によって大切に扱われてきたことが雄弁に伝わってくる。

 留め具を外し、そっと蓋を開ける。そこに現れたのは、深い琥珀色に輝くバイオリン。磨き抜かれた木肌は美しく、持ち主に愛されていることが伝わってくるようだ。


(テオバルト様が……弾くのかしら?)


 日々忙しく政務をこなす彼が、この楽器を抱いて音楽を紡ぐ姿……想像すると、不思議な気持ちになる。

 蓋をそっと閉じ、ケースを元の位置に戻す。その一連の動作を終えた後、まるで見てはいけないものに触れてしまったような妙な感覚が胸を占めた。

 

 ベルナが戻り、クラウスを呼んだ旨を告げると、オフィーリアは静かに頷いた。

 数分後、書斎の扉が静かに開き、クラウスが入室する。その姿に、オフィーリアは少し姿勢を正した。銀糸のように輝く灰髪に、深く澄んだ青の瞳。彼の佇まいには無駄がなく、彼が一歩一歩と近付くたびに部屋の空気が少し引き締まるように感じられた。

 冷静な蒼の瞳は、まるで相手の価値を見定めるように鋭い。けれどその眼差しの中には誠実さがあるのだと、今のオフィーリアは知っている。

 

「お呼びだと伺いました。何かご用でしょうか」

 その声は低く穏やかで、オフィーリアの緊張をどこか察しているようだった。

 組んだ両手の指を自然ときつく絡ませる。胸の奥で言葉が揺れ、迷いが生まれる。こんな自分が、彼の時間を奪っていいのだろうか。けれどテオバルトのことを、もっと知りたい。その想いだけが今のオフィーリアを支えていた。ゆっくりと、息を吸い込む。


「お呼び立てして、申し訳ありませんでした。実は、その……北方交易路について、教えていただきたいのです」


 声を絞り出すようにして紡いだ言葉に、クラウスの瞳がわずかに動いた。そこに驚きはなく、わずかな温かさのようなものが宿っている。まるで、この日が来ることを待っていたかのように。


「交易路についてですか。——では、まずは地理からですね」


 そう言いながら彼は本棚へ歩んだ。何冊かの本を取り出すと机の端に並べながら、手際良く大きな地図を机上に広げる。

 その仕草には迷いがなく、オフィーリアの問いを受け入れる用意が既にできているかのようだった。


「私でよろしければお手伝いいたします。どうぞ、こちらにお掛けください」


 オフィーリアが椅子に腰を下ろすと、クラウスは机を挟んで向かいに座る。その動作一つにも無駄がなく、まるで書斎の一部かのように自然だった。


 広げられた地図に目を落とした瞬間、意識の奥底に閉じ込めていた記憶が、音を立てて溢れ出す。

 離宮での最後の朝。冷たい目と嘲笑。お前は無価値だと嗤う声——それはまるで、自分の心を絡め取る蔦のように絡み付いて離れない。

 自分がいかに無価値かを痛感させられても、ただ俯いて耐えることしかできなかった惨めなオフィーリア。


「——お嬢様」


 クラウスの声に、オフィーリアはハッとして顔を上げる。その瞳には冷静な蒼が輝いていたが、どこか優しい気遣いの色が見えた。


「お加減が優れないようでしたら、またの機会にいたしましょう」

「いいえ、大丈夫です」


 そう答える声は、間違いなく自分のもの。あの時は何一つ持っていなかった。けれど、今は違う。

 地図に描かれる無数の線と記号。それが何を意味するのか、何一つわからない。でも、だからこそ、これから学んでいきたかった。

 あの本棚に並ぶ本のすべてを理解することはできなくても、テオバルトが成し遂げた功績がどれだけ素晴らしいものかを、きちんと理解したい。

 膝の上でそっと両手を握る。手のひらに冷たい汗を感じながら、オフィーリアは覚悟を決めた。

 

「私、地図の見方もわかりません。……そこから、教えていただけますか?」


 その告白は、かつての自分には想像もできなかった勇気が必要だった。己の無知を晒すのは、自分の価値のなさを自ら証明しているようで、酷く恐ろしい。

 しかしクラウスはその言葉に眉ひとつ動かさず、穏やかな笑みを浮かべた。


「もちろんです。はじめましょう」


 その言葉は、まるで新しい扉が開かれるような響きを持っていた。

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