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第二十三話 ひとときの夢

 窓から差し込む朝の光が、オフィーリアの頬を優しく撫でた。薄絹のカーテン越しに庭の木々が揺らめき、光と影が柔らかな模様を描いている。

 寝台に横たわる体を起こしながらふわりと蘇る昨夜の記憶に、オフィーリアは静かに思考を沈めた。


 その姿が、まぶたの裏で輝きを放つ。深い濃紺の礼装に身を包んだ彼は、まるで夜空そのものが形を成したかのよう。一つ一つの仕草に秘められた優雅さは、まるで生まれながらのもの。光の中でさえ、彼は特別な輝きを放っていた。

 その向こうに広がる世界——きらめく灯りと、響き渡る笑い声。社交界という名の、彼の本来の居場所。


(テオバルト様は社交界に生きる人——私とは、違う)


 その事実が針のように胸を刺す。

 社交界。人々の笑い声、グラスの触れ合う音、そして陶酔に満ちた視線。彼はその煌びやかな世界の中心にいる人。生まれながらの貴族として、その場所に相応しい人。

 かつて自分もその世界に立っていた。銀月の歌姫(ルナ・セラフィーヌ)として、歌声は人々の心を魅了し、視線は自分一人に注がれた。確かにあの時は、誇りがあった。夢があった。でも——


(孤児であることは、絶対に知られてはいけない)

 その戒めは今でも耳の奥に残っている。舞踏会場でグラスを持つ手が震えないよう、誰かに出自を問われても表情を崩さないよう、どれだけ自分を律してきただろう。

 完璧な淑女のように微笑み、優雅に振る舞い、凛として歌う。それさえできれば、この世界にいることを許される。


 けれど——どんなに美しく歌っても、どれほど賞賛の言葉を向けられても、彼らとの間には越えられない壁があった。その感覚は、たとえば誰かと目が合う瞬間、あるいはふとした会話の途切れる間に、心を凍らせた。

 あの空間でオフィーリアだけが貴族ではなかった。

 歌姫という仮面の下で、オフィーリアはいつもどこか独りだった。 


 せめて歌姫という肩書きがあれば、彼の隣に立つ夢を見るくらいは許されたかもしれない。けれど今の自分には、その資格さえない。

 その想いに、胸の奥がぎゅっと痛む。

 今では歌姫という肩書きすら失くして、あの世界はまるで遠い夢のよう。思い出すたびに心を引き裂くような痛みと共に、埋もれていた感情が押し寄せてくる。


(もし、今も歌えたなら——)


 その想いが胸の奥で震え、切なさが喉もとまで這い上がってくる。

 広い王宮の片隅、不安と孤独に駆られていたあの頃、エリオンの笑顔だけが光のように差し込んでいた。

 兄のような優しさで手を差し伸べ、支えてくれた彼の温もりは、凍えそうな心を溶かしてくれた。けれどそれはほんの一瞬の温かさ。


 エリオンの瞳に宿る戸惑い。その奥に潜む無力さ。彼の前に立つたび、二人の間に横たわる深い溝を思い知らされる。どれほど優しい言葉を向けられても、心の奥底で広がる闇は消えない。むしろ、その純粋な想いに触れるたび、胸が掻き裂かれるように痛んだ。

 微笑みの裏に滲む切なさに気付くたび、言葉にできない想いが二人の間で交差する。それは慰めではなく、ただ互いの孤独を映し出す鏡のようで。王子という鎖に縛られた彼もまたきっと、自由ではなかったのかもしれない。


 けれど今、テオバルトの琥珀色の瞳に映るのはかつての歌姫でも完璧な淑女でもない、ただの、オフィーリアだった。その事実が、不思議と胸を温かく満たしていく。

 彼は社交界の華やかな夜会ではなく、朝食を共にする静かな時間を望んでくれた。その真摯な想いは、今も心に残り続けている。

 

 この日々はひとときの夢のようなもの。いつか終わるその時まで、もう少しだけ浸っていたい。

 寝台から降りる足取りに、小さな決意が宿る。足りない自分を責める気持ちを、オフィーリアはそっと心の奥底に閉じ込めた。

 せめて、この朝くらいは彼の目に恥じない自分でいたい。その願いは昨夜の温もりと共に心の中で育っていた。


 衣装部屋の扉を開くと、美しいドレスの数々が柔らかな光を纏って並んでいる。

 芽吹いた新緑のように明るい緑色、雨上がりの空を映した美しい青磁色、暖炉の炎を思わせる暖かな橙色、朝の目覚めを告げる爽やかな水色。


「今日は、どれにしよう……」


 ふと漏れた声に、自分でも驚く。震える空気が、確かに自分の意志で動いている。その感覚は、小さな希望の光のよう。喉から自然と零れ落ちた声の響きに、自分でも少しだけ心が落ち着く気がする。


 迷う指先が一瞬、夕映の光を閉じ込めたような深い琥珀色に触れる。彼の瞳と同じ——そう思うと自然に頰が熱くなる。けれど彼の色を纏うなんて、今の自分にはあまりにも過ぎたこと。

 次に目に止まったのは自分の瞳とよく似た、夜明け前の空が淡く染まるような青紫。

 銀月の歌姫(ルナ・セラフィーヌ)——空っぽの器だけを残して消えた、幼い少女。けれどこの色は、過去も現在も、そしてこれからも、ずっと自分の一部なのだと気付く。それは彼が選んでくれた色。今の自分を、ありのままに受け入れてくれる優しさの形。


「私は……やっぱり、この色が好き」


 ドレスを胸に抱きしめると、滑らかな絹の感触が心を落ち着かせてくれる。これから始まる朝に、小さな期待が膨らむ。

 扉が叩かれ、ベルナの声がする。「どうぞ」と躊躇いなく応じる自分の声が、新たな一歩の背中を押してくれるようだった。もう、鈴は必要ない。

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