第二十二話 守る者の逡巡
アリスの表情は普段と変わらないように見えたが、その言葉の裏には僅かに探るような響きがあった。
「他意はありません。ただ婚約されたのであれば、今後は私が夜会で同伴するのは控えた方が良いかと思いまして」
「そのことについて考えないわけでない。だが、彼女には今は別のことに集中してほしいと思っている。社交界に出るのは本人が望み、それに十分に慣れた時でいい。——もちろん、きみの評判に傷が付くようなことは避けるべきとも思っている」
普段、社交の場で女性の同伴が必要なときはアリスを伴っている。それは仕事上の利便性もあり、彼女が場の空気を読んで適切に振る舞う能力に長けているからで、それ以上の意味はない。
一方でアリスの懸念は最もでもある。婚約者のいる男と夜会を共に過ごすことで彼女が不利益を被る可能性に気が付かないほど鈍くもない。
「だが、きみの能力と振る舞いはこの場にいる誰よりも立派だ。私との仕事がきみの評価を下げるものになるとは思えない」
そう言い切ると、アリスは少し驚いたように目を伏せる。真正面からの賛辞をどう受け止めていいかわからないとでもいうようにしばし沈黙した。だが、再び顔を上げた時、その表情は晴々としている。
「わかりました。その時が来るまでもうしばらく、お側で学ばせていただきます」
「ああ、よろしく頼む」
アリスは新緑の瞳にわずかな好奇心を忍ばせながら言った。
「よろしければ、どのような方なのかお伺いしても?」
周囲から人の目が減ったタイミングを見計らっての控えめな問いに、テオバルトは一瞬言葉を選びかねた。普段なら即座に遮るはずの質問だ。けれど今、胸の中に広がる温かな感情を、完全に押し殺すことはできない。
「彼女は……若くして多くを背負ってきた人だ。言葉にしないだけで、その心には傷も迷いもある。だがその中で自分にできることを見つけ、それを積み重ねていく努力を続けている。前に進もうとする意志を決して忘れない。そんな姿を、とても好ましく思う」
心の奥で熱いものが込み上げてくる。守りたいという想いは、いつのまにかもっと深いものへと変わっていた。傍にいて支えたい。喜びも悲しみも共に分かち合いたい。
それが果たして彼女のためになるのか。時折湧き上がる疑問を、今このときばかりは振り払うことができない。
「その方と過ごされる時間は、きっと幸せなものなのでしょうね」
アリスの瞳には純粋な祝福の色が浮かんでいた。ここまで踏み込んでくる彼女は珍しい。
「その時が来るまで、このことはお二人の秘密にさせていただきます」
「そうしてもらえると助かる」
テオバルトの答えは短かったが、その声には心からの感謝が滲んでいた。
◇
そして夜会が次第に落ち着きを見せ始めた頃、テオバルトは視界の端で、ハインリヒが周囲の人々と軽やかに会話を交わしながら歩いてくるのを捉えた。
三十歳になったばかりの若き君主は、年齢以上の風格を纏いながらも、若さ特有の活力と親しみやすさを漂わせていた。
ハインリヒ・ランベルト・ヴェルトリック。
彼の濃い金髪は陽光を宿したように輝き、周囲の明かりを反射してまるで黄金の冠を思わせる。その髪の束は端正に整えられ、一筋たりとも乱れていない。
深いサファイアを湛えた青い瞳は、軽やかに見える笑みの奥に君主らしい冷静な知性と洞察を秘めている。
堂々とした佇まいと流れるような動作は、彼がこの場の中心に立つべき人物であることを自然と周囲に納得させる力があった。
彼の服装は、濃紺を基調とした正装だった。金糸で織られた刺繍が襟元から裾まで繊細な模様を描き、肩には同じく金の飾りが控えめに輝いている。
その姿は華美に寄り過ぎることなく、それでいて威厳と格式を損なわない絶妙なバランスを保っていた。胸にはラウレンティア王家を象徴する紋章が輝き、見る者に彼がこの国の統治者であることを強く印象付ける。
「シュルテンハイム侯爵」
ハインリヒは静かに名を呼び、微笑を浮かべる。その声に、周囲の人々が軽く頭を垂れながら立ち去っていった。
「閣下」
テオバルトもまた、一礼して敬意を表した。その動作は隙のないものだったが、その表情には一瞬だけ警戒をといたような柔らかさが浮かぶ。
「夜会を引き立ててくれて感謝する。君がいるだけで、この場は締まるものだな」
「恐縮です。本日はこのような場を設けていただき感謝しております」
丁寧に頭を下げるテオバルトに、ハインリヒは軽く手を振り、形式的な挨拶を遮るように笑みを浮かべた。
「堅苦しいな。お前とは幼い頃からの付き合いだろう。もっと気楽にしてくれて構わない」
そう言いながらもハインリヒの声には権威を崩さない威厳が含まれていた。それを理解しているテオバルトはかすかに笑みを浮かべたものの、やはりその態度を大きく崩すことはしない。
「その頃と比べれば、今の私は外務卿、閣下はこの国の君主です。昔のようにはいきませんよ」
「相変わらず真面目な男だ。しかし、そうしたところが信頼に値する」
茶目っ気を含んだ言葉に、テオバルトの外務卿としての仮面がわずかに緩む。
「まあ、それでこそレーヴェンハースト家の息子だ。だがな——肩の力を少しは抜いてもいい。でないと周りが疲れてしまうぞ」
ハインリヒは小さく笑いながら、テオバルトの肩を軽く叩いた。
その後、彼は視線を周囲に巡らせ、少し声を潜めた。
「……それで、あの件だが、うまくいってるのか?」
テオバルトはすぐにその意図を理解し、穏やかな表情を崩さないまま答えた。
「はい。まだ不安定な部分もありますが、少しずつ環境に馴染みつつあります」
「そうか。ならば安心だ」
ハインリヒはゆっくりとうなずく。その瞳には深い思慮が宿っていた。
その瞬間、テオバルトの胸に一つの情景が浮かび上がる。
まだ、ハインリヒがその役職に就いたばかりの頃。大公の執務室にて、銀月の歌姫の身柄を引き取りたいと告げたこと。そのために結婚の名目を取るが、彼女にはこの国で自由に生きる自由を保証したいこと。
将来的に彼女がどの生き方を選ぶとしても、オフィーリアを外交の駒として使うことはしたくないこと――自分らしからぬ言葉に彼は驚きながらも、その真意を知ると慎重に耳を傾けてくれた。
ガレス王への申し出は純粋に個人的なものだ――そう強調したとしても、国内外で波紋を呼ぶのは想像に難くなかった。
それでも、大公はその決断を認めた。もちろん、それがもたらす可能性についての責任は、すべて自分に課せられていた。
「彼女には時間が必要です。それだけは確かです」
その言葉に、ハインリヒは短くうなずいた。
「君の判断は間違っていない。安心したよ」
大公の瞳に一瞬、柔らかな光が宿る。そして彼はグラスの中身を飲み干し、改まった口調で語りかけた。
「北方交易路の安定がこの国の未来を大きく左右する。だが、交易路だけじゃない。裏で動くものにも気を付けろ」
穏やかな声で言いながらも、含みのある視線をテオバルトに向けた。その言葉には、信頼と同時に、彼が期待を寄せる「外務卿」としての重責が込められていた。
「重々、心得ております」
短い応答にハインリヒは満足げに頷いた。そして、少し砕けた口調に戻る。
「まあ、君ならうまくやるだろうがな。それじゃあ、また後で」
大公は微笑を浮かべ、次の会話の相手へと歩き去っていく。その後ろ姿を見送りながらテオバルトはふと息を吐いた。
(ここにオフィーリアを連れてくる選択肢は、最初からない)
そう考えながらテオバルトは琥珀色の瞳を細めた。厳しい視線が飛び交うこの場は、彼女にはあまりにも残酷すぎる。
あの無礼なヴォルフラムのような人間はもちろん、ここにいる誰もが彼女の過去や立場を憶測し、好奇の目を向けるだろう。声を失い、心に深い傷を負った彼女をそんな目に遭わせるわけにはいかない。
(それは例え彼女が私と共に生きる未来を選んでくれたとしても、だ)
その考えに至った時、テオバルトは小さく苦笑した。自分の一存ではどうにもならないことだ——そうわかっていても、もし彼女が心からその未来を願うなら、自分は喜んで彼女を守るだろう。それが自分の役割であり、彼女の隣に立つ者の責任だと信じている。
だがふと、別の可能性が頭をよぎる。
(もし彼女が、自分とは別の場所で生きることを選ぶとしたら——)
胸が軽く締め付けられるような感覚を覚える。彼女が自由な未来を望み、自分の手が届かない場所で生きることを選ぶ。それが彼女にとって最善だとしたら、果たしてそれを心から祝福できるのだろうか。
以前とは違い、自問自答の末に答えは出ない。ただ胸の奥に宿るわずかな痛みが、どこか現実的な感情だと思えた。
自分が望むのは彼女の幸せで、そのためならどんな犠牲も惜しまない——そのはずだった。
(あの離宮から連れ出した以上、私はリアの人生に責任を持たなければならない)
守りたいという気持ちは正直なものだった。しかしそれは、彼女の自由や意志を奪うことに繋がりはしないか。結局、自分はどこまで彼女の人生に関与していいのか、その答えが見えないままだった。
思考の迷路に迷い込みそうになった時、遠くから響いてくる弦楽器の優美な音色が、テオバルトの意識を現実に引き戻した。会場内のざわめきが再び耳に届く。
気を取り直すように軽く肩を回し、テオバルトは意識を前に戻した。
2025.2.7 諸条件により大公の名前を一部変更いたしました。これで確定です…!




