第二十一話 冷たい輝きの中で
その言葉に込められた探りの意図をテオバルトは瞬時に読み取った。
オフィーリアを小鳥などと例える軽薄さに思わず眉を顰めたくなる。彼女が寵愛どころか声をも失ったことは、エステリエの王宮に出入りする人間なら皆が知っていることだというのに。
相手の本音を探るように、穏やかな笑みの中に鋭い観察の目を光らせる。
「あいにく、小鳥の行方については存じ上げません」
テオバルトは穏やかに微笑みながら、声に微かな冷たさを滲ませた。
「ただ、どこにいようと安らかに過ごされていることを願うばかりです」
口調こそ穏やかであっても、その声音にはそれ以上を語らせない鉄壁の静けさが滲んでいる。それを悟ったのか、ルイはそれ以上深入りしてこなかった。
「確かにそれなら安心ですね。小鳥を愛でていた一人として、元気に過ごしているなら喜ばしい限りです」
その笑みは柔らかい。しかし天井からの光を受けて輝くグラスの中身が見え隠れするたび、その底にどこか冷ややかな色を感じた。
ルイが離れていったあと、テオバルトは小さく息を吐いた。夜会の喧騒は変わらず続いているが、耳元にはまだルイの言葉がわずかに残響している。だが、今考えるべきは鳥籠に閉じ込めた小鳥ではない。彼は静かに首を振り、思考を切り替えた。
テオバルトは会場内を歩きながら、自然とアリスの姿を探していた。彼女は今もこの場のどこかで、自分の役目を果たしているはずだ。
それが同僚との情報交換であれ、各国の使節団との会話であれ、彼女は常に必要な場面で的確に動いている。彼女の機転の利く様子は、いつ見ても信頼に値するものだった。
その途中、テオバルトは数人の貴族に声をかけられ、短い挨拶を交わした。どの顔も形式的な笑みを浮かべている。彼らの背後には探るような視線が隠れていることをテオバルトはよく理解していた。それもまた、夜会という舞台の性質だ。
再び広間を見渡したとき、ようやくアリスの姿を見つけた。艶やかな深緑のドレスを纏い、堂々とした立ち振る舞い。周囲には彼女の同僚と思われる数人が立ち、その中心で何かを話しているようだった。だが、彼女に注がれる視線が賞賛だけではないことは明らかだった。
テオバルトは足を止め、その場からアリスの様子をしばらく観察した。
アリスは平民出身でありながら外務官という地位に上り詰めた。身分より実力を——という若き大公の革新的な方針が彼女を支えたことは確かだが、それだけではこの場には立てない。彼女が自ら積み重ねた努力と忍耐があったからこそ、今ここに立つことができているのだ。
彼女は誰よりも多くの批判に晒され、誰よりも多くの壁を乗り越えてきた。その過程を間近で見てきたテオバルトにとってその存在は頼もしいものだった。そして、その分だけ、この広間に漂う悪意に対して、微かに苛立ちを覚える自分がいることも自覚していた。
その時だった。場の空気を裂くように、低く罵る声が響いた。
「平民の、それも女が、そのような高尚な理想を語るとは! これだから女は感情的で困る。分を弁えて黙っていればいいものを」
声の主を探す前に、テオバルトは既にヴォルフラムだと察していた。案の定、彼は唇を歪め、冷笑を浮かべながらアリスを見下ろしていた。
広間は一瞬凍りついたように静まり返り、視線のすべてがアリスとヴォルフラムに注がれていた。
アリスの瞳は相手の冷笑を正面から受け止めている。毅然とした態度は崩れず、彼女の背筋は凛と伸びたままだ。しかし、その場に立つ彼女の肩には、この場の視線すべてが押し寄せる重圧がかかっているのが明らかだった。
テオバルトはその場で冷静に状況を観察していた。怒りの言葉を返すべきではない——それがアリスの判断なのだろう。だが、それを傍で見ているテオバルトの胸には、小さな棘が刺さるような感覚があった。
ここは彼女一人で背負わせる場ではない。そう考えた瞬間、テオバルトは歩みを進めていた。彼の視線は鋭く、まるで広間を支配する冷たい空気を切り裂くかのようだった。すれ違う人々が無意識に道を開ける中、その歩みは迷いなくアリスとヴォルフラムの間へと向かう。
テオバルトはアリスの前に立つと、低く、抑えた声で口を開いた。
「ヴォルフラム殿」
静かに響き渡った低い声が、場の空気をさらに引き締めた。踵を鳴らしヴォルフラムの前まで歩むテオバルトの、その存在感が場を支配する。
琥珀色の瞳は穏やかに見えながらも、そこ知れぬ冷たさを湛えていた。その目がヴォルフラムを射抜くように見据えると、彼は気押されたように一歩引いた。
「貴公ほどの方がそのような軽率な発言をされるとは、少々驚きました。北方の大義を背負う貴公がこの場で何を示すべきか、ご自身でよくご存じのはずでしょう」
その声には一切の感情が込められていなかった。冷静でありながら、どこか低く響く静かな威厳が広間に響く。それは一瞬のうちに周囲の空気を変えた。ヴォルフラムの目が細まり、冷笑が薄れる。
「感情的な行動を批判されるならば、それに見合う冷静さをまずはご自身が示されるべきでしょう。それこそが、北方の誇りではありませんか?」
テオバルトの言葉が鋭く響き渡ると、ヴォルフラムの冷笑が一瞬揺らぐ。その場に漂う緊張感がさらに高まり、周囲の視線が二人に集中する。
「私の部下であるフォルスターは、貴公が侮るような軽薄な存在ではありません」
テオバルトは一歩前に出た。その声には微かな怒りが込められていたが、それはどこまでも冷静で、場を圧倒する威厳を保っている。
「彼女がこの場にいるのは、その功績を評価され、この場にふさわしいと認められているからです」
テオバルトの言葉は平静そのものだが、その背後には揺るぎない力が感じられた。
何かを言い返そうとヴォルフラムが口を開く。しかしその瞬間、テオバルトは再び言葉を紡ぐ。
「彼女は努力を積み重ね、自らの力で今この場に立っています。一方で、あなたがその立場を得るために何を積み重ねてきたのか。あるいは、誰に依存してきたのか、その違いは明白でしょう」
その言葉は、ヴォルフラムの心臓を正確に撃ち抜く。周囲の空気が凍りつく中、ヴォルフラムは一瞬だけ目を伏せた。
「何を言うか……」
掠れた声が彼の唇から漏れる。それ以上の反論はない。交渉の場でヴォルフラムの意見に賛同する者ですらも黙り込み、北方の穏健派たちもテオバルトの視線を受け、無言のままこちらに同意を示した。
ヴォルフラムがラウレンティア側の対応に不満を漏らし、他国の使節団に対して挑発的な発言を繰り返していることは、テオバルトの耳にも届いていた。
そうした軽率な振る舞いが自身の立場を危うくしていることに気付いていないのか——それとも、あえて反感を煽り、何か別の意図を隠しているのか。どちらにせよ、この男の存在は厄介であり続けるだろう。
周囲に味方がないと悟り、ヴォルフラムはその場を立ち去るしかなかった。その後、会場に小さな安堵と、新たな活気が戻っていく。周囲の人々は再び社交の場にふさわしい微笑みを浮かべ始める。
アリスは一礼し、感謝の意を込めた微笑みをテオバルトに向ける。その表情はどこか安心しているようでもあった。
「きみの能力は私が評価している。あのような戯言を気にする必要はない」
テオバルトの穏やかな声に、アリスは少し目を伏せた。そして落ち着いた声で返す。
「お気遣いありがとうございます。ですが、大丈夫です。慣れていますから」
そう言いながら、握り締められた手がわずかに震えていることを、テオバルトは見逃さなかった。
その時、広間の一角から一人の男がゆっくりと歩み寄ってきた。アルヴィン・グレンダー公爵——アルスガード公国において穏健派の中心人物として知られる、北方を代表する重鎮の一人だ。その姿が目に入った瞬間、テオバルトの眉がわずかに動いた。
(グレンダー公がこの場にいるとは……)
彼が北方使節団の一員でない。アルスガードのような大国を支える立場の人間がわざわざラウレンティアに足を運び、ここにいる理由は――当然、簡単なものではないだろう。
白髪の頭は整えられ、堀の深い顔立ちは厳格な印象を与える。矍鑠として、背筋を伸ばした姿勢は威厳を保ちつつも、どこか親しみやすさも滲ませている。だがその柔和な外見の下に隠された底知れない力が、彼を知る者に畏怖を抱かせるのだ。
「シュルテンハイム侯爵、そしてフォルスター殿。先程のヴォルフラムの失礼、心からお詫び申し上げます」
低く落ち着いた声は、広間のざわめきを超えてしっかりと耳に届く。その言葉には北方を代表する貴族としての重みと誠意が感じられた。
テオバルトは軽く頭を下げながら応じた。
「ヴォルフラム殿の言葉が北方連合の総意でないことは承知しています。ただ、彼の立場を考えれば、もう少し慎重であるべきでしょう」
「ええ、その通りです。若い彼には、まだまだ学ぶべきことが多い」
グレンダー公の言葉には、表面的な謝意の下に何か別の意図が潜んでいた。
(何を意図して、今ここにいる?)
彼はあまり国外に顔を出さない人物だ。テオバルトの心には一抹の警戒が生まれていた。相手がただの謝罪ではなく何かを求めていることは明らかだった。
「侯爵にそうおっしゃっていただけるのはありがたい。しかし、彼の横暴な振る舞いが北方全体の印象を悪くしないよう、私も心を砕かねばなりません」
グレンダー公は一瞬眉を寄せ、少しだけ肩をすくめて見せる。彼の声には誠実さがあるものの、内心では内部事情に悩みを抱えていることが伺えた。
一方、テオバルトの隣で一礼していたアリスに視線を向けると老公は表情を柔らかくし、軽く頭を下げた。
「あなたのような方がこのような場に参加してくださることを、我々は歓迎しています。無礼者の振る舞いに動じないその姿勢、実に素晴らしい」
アリスは一瞬驚いた表情を浮かべたものの、すぐに微笑を浮かべると深々と礼をした。
「ありがとうございます、公爵閣下。私はただ、自分の立場でできることをしているだけです」
その返答には、平民出身であることを突きつけられる場面でも決して屈しない彼女の誇りが感じられた。グレンダー公も微笑み、深く頷く。
そして再びテオバルトのほうへ向き直った。穏やかそうな光を湛えていた瞳が、すっと細められる。
「侯爵、折り入って少しご相談がございます。後日で構いませんので、少しお時間をいただければと思いますが」
「もちろんです。喜んでお話を伺います」
テオバルトは即座に応じる。その柔らかな笑みは社交辞令のように見えつつも、裏ではグレンダー公の真意を探ろうとする思考が渦巻いていた。
グレンダー公は静かに礼をして、その場を去っていく。その背中は年齢を感じないほど堂々としており、彼が北方穏健派の中心人物であることを改めて感じさせた。
◇
それからも夜会のざわめきは収まることなく続いていく。煌びやかな装飾と軽快な音楽が場を包む中、テオバルトは頭の中で次の一手を考えていた。
アリスが一歩後ろから控えめに声をかける。
「穏健派の筆頭と噂される方が、わざわざ公の場で相談を持ちかけるとは……よほど慎重を期しているようですね」
「そうだな。このように多くの目がある場所で接触を図るのは、彼なりの意図があるのだろう。公的な場で相談を始めたとすればそれは自分が公的な立場にいると印象付けるためかも知れない」
「穏健派としての印象を見せたい、ということでしょうか」
「あるいは、北方の連携の乱れを隠しきれないという暗示でもあるかもしれない。どちらにせよ、注視すべきだ」
アリスは小さく頷いたが、その表情には若干の翳りがあった。
「私は……うまく立ち回れませんでしたね。こういう場ではまだ足りない部分が多いと感じます」
その言葉にテオバルトはちらりと彼女を見下ろした。その横顔に浮かぶ悔しげな色は、彼女の努力を知る彼にとって少し痛ましいものだった。
「フォルスター、きみの対応は見事だった。ヴォルフラムのような相手は理屈ではなく感情で動く。きみが毅然とした態度を貫いたおかげで、こちらが優位に立てた」
「それでも……」
「全てが完璧でなくてもいい。重要なのは、きみがそこに立っていたことだ。自信を持て」
その言葉に、アリスはわずかに目を見開いたが、すぐにほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます、閣下」
二人は夜会の華やかな空気の中を並んで歩いていた。シャンデリアの光が足元を照らし、行き交う人々のざわめきが耳に響く。
しばらく沈黙が続くなか、アリスが意を結したように声を顰めた。
「本日は、ご婚約者様はご一緒ではないのですか?」




