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第二十話 仮面の舞台

 テオバルトは馬車の揺れに身を預けながら、屋敷の玄関ホールに立つオフィーリアの姿を思い返していた。

 外務卿としての仕事に向かう途中、私的な思考に耽る自分を戒めるべきだと理解しながらも、その光景から目を逸らすことができない。


(一体、何が彼女をそこまで動かしたのだろうか)


 その問いが心の中で繰り返されるたび、様々な疑念や考えが次々と浮かんでは消えていく。外交官として常に冷静な判断を下してきた自分が、この一事に関してはどうしても客観的になれない。

 声を取り戻してからというもの、オフィーリアは少しずつ生来の明るさを取り戻していた。ベルナだけではなく庭師や調理人とも言葉をかわし、クラウスとすら短い会話をしている。

 少しずつ自分を取り巻く世界に向き合おうとしている彼女にとって、声を取り戻したことは間違いなく自信になっているのだろう。


(今までの彼女ならあのような行動を取ることはなかった。だが、今日は……)


 その理由を考えずにいられなかった。先日は『お気をつけて行ってらっしゃいませ』と丁寧に綴られていた。それが彼女なりの精一杯の距離だと理解していた。

 テオバルトがオフィーリアを訪ねることはあっても、彼女からの接触はあれが初めてだ。今日も同じようなカードが届くと想像していた。

 

(あれが彼女なりの歩み寄りならば、それを無駄にしないために私は何をすれば良いのか)


 か細い声と控えめな微笑み。それらに込められた意味がわからない。揺れる瞳が示す感情を知りたかったが、恐れや不安を煽るのではないかと思うと踏み込むことができなかった。

 自分が与えた環境が、彼女の感情を左右しているのだとしたら。彼女の心が本当の意味で自由を得られる日は来るのだろうか。そう考えるたび、やはり距離を取るべきだという思いが頭を擡げる。

 だがそれでも、今朝の彼女の行動を無視することはできなかった。


(だからと言って、私は彼女に何を望んでいるのか)


 朝食を共にしようと誘ったのは、彼女が歩み寄りをしてくれたことに応えるため——そう言い聞かせていた。

 しかしその裏には、自分の中にある純粋な興味が隠れていた。彼女の声の震え、その理由。瞳の翳りが何を隠そうとしているのか。


(彼女の笑顔を取り戻したいという思いすら、私の勝手な願いなのかもしれない)


 馬車の振動に合わせるように大きく息を吐き出し、テオバルトは意識的に思考を切り替えた。今宵は外務卿としての職務に徹するべき時間だ。目的地が近付くと、馬車は徐々に速度を落とし、やがて止まる。御者が扉を開くと冷たい空気が肌を撫で、同時に公務の重みが肩に乗った。

 その先に待っていた美女が、艶やかに微笑んだ。翡翠の瞳が細められ、深い赤褐色の髪が月明かりに照らされて鮮やかに輝く。その立ち姿には外交官としての気品が滲んでいる。


「お迎えありがとうございます、閣下」


 控えめに微笑みながら、アリス・フォルスターはテオバルトの差し出した手に軽く触れた。


「どういたしまして」


 外務卿としての表情を完璧に整えたテオバルトは短く答えると、そっとアリスを支え、馬車の中へと誘った。彼女が裾を乱さないよう丁寧に気を遣いながらの仕草は、まさに完璧な紳士そのものだった。それは彼の本質というより、長年磨き上げた外交官としての技術だった。

 馬車に乗り込むと、アリスは向かいの席に軽やかに腰掛けた。深緑のドレスが控えめな光沢を放ち、窓の外から漏れる街灯の光がその緑を美しく縁取っていた。御者によって扉が閉められると、テオバルトは自らの席に腰を下ろす。


「きみを迎えにいくのも、もう慣れたものだ」

「それは光栄です」


 今夜、テオバルトのパートナーを勤めるのはアリスだった。

 外務省の中でも有能と称される若手の一人で、北方交易路の立ち上げにも深く関わり、今も北方使節団との対応に当たっている。彼女のように実務に明るく、かつ迅速な対応ができる人材は貴重だ。

 何より彼女のとの関係は純粋に公務上のものであり、それが今の自分には必要だった。余計な感情や誤解を挟むことがなく、テオバルトも純粋に仕事に専念できる。


 馬車に揺られながら、二人は今日の夜会について打ち合わせをはじめた。表情は自然と引き締まり、思考も明晰になっていく。ここで必要なのは外務卿としての冷静な判断力だ。

 今宵の夜会は大公主催のものである。ラウレンティアの貴族の他、北方や南方のなど各国の使節団や要人が招かれている。社交の場を装いながら、実際には様々な思惑と利害が交錯する政治の舞台になるだろう。

 テオバルトが注視したいのはヴォルフラムを筆頭とするアルスガードの動向だが、南方からも気になる報告が入っており、そちらも探りを入れたいところだった。外交官として培った直感が、何か重要な動きがあることを告げていた。


(だが、最優先はアルスガードだな)


 北方連合の使節団長として振る舞うヴォルフラムの姿を思い浮かべた。北方連合の中心国の人間とはいえ、国内で特に発言力が高いわけでもないのに、彼は前代表を蹴落として代表の座に着いた。果たしてそれは彼個人の思惑によるものなのか、それとも——

 その思考の先に、テオバルトはいくつかの可能性を見出していた。外交に関わる者として鍛え上げた分析力が、静かに動き始めていた。


 ◇


 華やかな夜会の場は、大公主催らしい格式を備えていた。高窓から差し込む月光と天井に釣られたシャンデリアの光が絶妙に絡み合い、金色の縁取りが施されたグラスや装飾品をきらめかせている。その煌びやかさの裏で、各国の思惑が静かに渦巻いていた。

 会場の一角では弦楽器の優美な音色が空間を柔らかく満たしている。しかし、響き渡る音楽の心地よさとは裏腹に、ここは単なる社交の場ではない。各国の要人が一堂に会するこの場は暗黙のうちに外交の戦場と化していた。


 テオバルトは自然体を装いながらも鋭い眼差しで周囲を観察していた。ラウレンティア国内の名士たちに混じって、北方や南方の外交官たちの姿も見受けられる。華やかな装いの裏に隠されたそれぞれの意図が、この広間全体に緊張感を漂わせていた。

 視界の端に、手にグラスを持った男の姿が入る。その軽やかな足取りはこの空間に完全に馴染んでいた。ルイ・バレリー。エステリエの外交官として知られる人物。南方特有の装いと親しげな笑みを湛えた表情が、彼の印象をやわらかく見せている。

 バレリーはゆっくりとした動作で近づき、テオバルトの前で足を止めた。


「シュルテンハイム侯爵、お久しぶりです。ラウレンティアの夜会はいつも素晴らしいですね」


 一礼しながら話しかけてきたその声にはどこか余裕が感じられる。テオバルトは微笑を返しつつ応じた。


「バレリー卿。こちらこそ、ラウレンティアの文化を楽しんでいただけで何よりです」


 そう言いながら隣のアリスに目をやり、自然に紹介を付け加えた。


「こちらは外務官のフォルスターです。若くしてこの地位に就き、私の補佐官を務めています。北方交易路の立ち上げにも大きく貢献してくれました」


 アリスもまた一歩前に出て優雅に会釈した。


「はじめまして、バレリー卿。お会いできて光栄です」

「それはどうも。ラウレンティアの外務省には優秀な方々が揃っていると噂に聞いておりますが、このようにお美しい才媛もいらっしゃるのですね。外務卿殿の補佐官ともなれば、さぞかしご立派な方なのでしょう」


 ルイの瞳がアリスをなぞるように動き、その視線が一瞬だけ彼女の装いから立ち位置までを図るように鋭く細まった。どこか品定めするような空気を纏った眼差しにも臆することなく、アリスは微笑んでいる。


「ところで先程耳にしたのですが、今日の葡萄酒はエステリエ産のものだとか」


 愛想の良い笑顔を浮かべながらテオバルトがそう言うと、ルイは誇らしげに目を細めた。


「よくお気付きになられましたな。恐れ多くも本日の葡萄酒は我がエステリエ産のものをご利用いただいているのです。もうお飲みいただけましたか?」


 ルイはグラスを軽く揺らしながら微笑む、その仕草には場慣れした外交官特有の洗練された動きがあった。


「残念ながらまだでして……エステリエの葡萄酒は国を超えて有名ですから、是非後ほど味わわせていただきます」

「交易路のおかげで、安全に商品を北方へ運べるようになりました。周辺諸国も皆、侯爵に感謝していることでしょう。北方交易路の成功が、やがて南方にも更なる良い影響を波及させるのではないかと私どもも注目しております」

「交易路の安定には北方との協力が欠かせません。そちらが盤石であれば、自然と南方にも恩恵が及ぶでしょう」


 テオバルトもまた外交用の穏やかな笑みを浮かべ、二人の会話は表向き穏やかに交わされていた。


「しかし最近、エステリエにひとつ不穏なことがありまして……」


 話題が切り替わる。ルイの口元に浮かんだ微笑は変わらないが、その言葉の裏には何か別の意図が隠されている。言い淀みながら、バレリーはちらりとテオバルトの隣に立つアリスに視線を向けた。


「アルハイム伯爵夫人にご挨拶をしてまいりますので、私は少し席を外します。それではバレリー卿、失礼させていただきます」


 美しい微笑みを保ったまま洗練された所作で一礼し、アリスは軽やかに身を引いた。その後ろ姿には堂々とした自信と判断力が感じられる。

 バレリーはその様子を横目で追いながら再びテオバルトに目を戻した。彼の視線が何か含みを持ちつつ、緩やかに変化する。


「さすが、閣下は周囲に恵まれていますな」

 その言葉は皮肉なのか感嘆なのか、判断しにくい曖昧な響きを持っている。あえて流しながらテオバルトが「それで、不穏なこととは?」と続きを促す。


「……実は、陛下が寵愛されていた美しい小鳥が城を飛び立ってしまったのです。今どこでどうされているか、ご存知ではありませんか?」


 胸の内で静かに何かが軋む音を聞きながら、それでも穏やかな微笑を崩さないままテオバルトはそっと目を細めた。

もう少し社交界のお話が続きます。どうぞお付き合いくださいませ。

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