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第一話 凍りついた夜に

 居を王城から離宮へ移すようにと命じてから二年間、何の干渉もなかった王から突然の呼び出し。

 その知らせを受け取った時、オフィーリアは体の震えが止まらなかった。まだ春の訪れには少し早い寒い日のことだった。


 離宮から続く長い回廊を通って足を踏み入れた王宮の、見慣れた華やかさに思わず目が眩みそうになる。オフィーリアは王の待つ執務室へ向かいながら、自分がもはやこの場所に属していないことを痛感していた。

 離宮の廊下はどこまでも冷たく静まり返っている。磨き抜かれた大理石の床は歩くたびに甲高い靴音を響かせ、その音はオフィーリアの心臓の鼓動と同じように不規則に乱れていた。

 高い窓から射し込む薄暗い冬の光が、壁に影を落とし、廊下全体が灰色に染まって見えた。まるでこの先の未来を予言するかのように。


 オフィーリアは震えた手を胸元で握りしめながら、一歩一歩、執務室の扉へと近付く。その扉の先に待つものを考えるたび、心臓が喉元で早鐘を打つように跳ね、呼吸が追いつかない。

(陛下は今更、どうして私を……?)

 その問いの答えはきっと、自分の望まないものになる。そんな直感があった。


 オフィーリアが執務室に入ると、背後で扉が閉められる。その重たい音は、牢獄の扉が閉まるような、あるいは棺桶の蓋が降りるような響きを持っていた。

 エステリエの国王ガレス・マグノン・エステリエは呼びつけたオフィーリアを一瞥することもなく、書類に目を落としたまま「ああ、来たか」と気のない声を出した。漆黒の闇をそのまま形にしたように深い黒髪は一本の乱れもない。その髪に宿る冷たさは、威厳というよりも人を遠ざける不気味な冷酷さを思わせた。


 その隣に立つ宰相は王に忠実な影そのものだった。痩せた頬と細長い体躯は、どこか獲物を品定めする梟を思わせる。薄い唇は笑みを描いても、そこに温かみは欠片もない。

 むしろ、その笑みには人を値踏みするような打算的な色が濃く染み付いていた。彼は書類を手に取りながら、まるで物品目録でも確認するかのように見下ろした。


 オフィーリアは不敬にならないよう気を配りながら視線を落としていた。その姿は、まるで首を垂れて処刑を待つ囚人のようでもあった。今この瞬間、この場所に留まっているだけでも全身の至る所に冷たい感触が広がり、手足は痺れたように震えている。


「お前をラウレンティアの侯爵の元に嫁がせる」

 ガレス王の言葉は、まるで使い古した道具の処分を告げるかのように冷たい。

 光を吸い込むような灰色の瞳が酷薄な笑みと共に、オフィーリアを射抜く。その視線は彼女を人間ではなく一つの所有物として見ているようだった。まるで、棚の上の古い置物を眺めるような無関心さで。


「北方交易路を完成させ、今や外務卿だ。お前のような価値のない女に、このような話が舞い込むとは奇跡に近い」

 そこまで言ってようやく顔を上げたガレス王の口元に浮かぶわずかな笑みが、まるで何かを断罪するように見えた。


(無価値……)

 同時に、頭の中にその言葉が何度も響き渡る。失った声、取り戻せない歌、そして孤独の日々——オフィーリアが離宮に幽閉されている理由は、すべてそこに集約されている。


「なにしろ外務卿たっての願いなのだ。彼が北方交易路を開いてくれたおかげで我が国の経済は今や絶好調、これくらいのことは聞いてやらねばな」

 二年間も世間と隔絶されていたオフィーリアには、北方交易路が何かもわからない。顔を伏せながら、使う機会がなく頭の隅で埃を被っていた知識をどうにか引っ張り出す。


 ラウレンティア大公国はこのエステリエ王国の北西に位置する、山岳や湖など豊かな自然に恵まれた中規模の国だ。その文化や産業にはエステリエの影響を色濃く受けてもいる。

 オフィーリアが声を失う少し前に大公は息子へ代替わりした。言葉を交わした外交官の顔と名前はすべて覚えていたものの、自分と年齢が釣り合うような若い男性は記憶になかった。

 オフィーリアからの返答がないことに気付いたガレス王は、不機嫌そうに顔を上げた。そして、ようやく思い出したように「ああ、そうか。口がきけないのか」と呟く。


 締め付けられるような胸の痛みを耐えるように、オフィーリアは瞼を閉じた。

 怒ることも忘れていた。ただ胸に染み込むような冷たい悲しみだけが、体の奥底に居座っている。

 きっと人はすべてを諦めると、涙も出なくなるのだ。


「しかし、まったく理解できん」

 何かを書類に書き付けていた手を止め、ガレス王はオフィーリアに無遠慮な視線を投げてくる。

「当然お前が歌えないどころか何も話せない欠陥持ちであることは伝えたが、それでも構わんそうだ」

 欠陥。短い言葉はそれでも刃のようにオフィーリアの傷口を抉った。


 二年前のことだ。

 舞踏会の熱も落ち着いた夜のこと。ガレス王は急にオフィーリアを私室へ呼んだ。普段なら侍女たちが付き添うのに、その夜は誰もいなかった。危険だと頭の中で警鐘が鳴っていたはずなのに、引き返すことができなかった。

 薄暗い室内で、ガレス王は突然オフィーリアを寝台に押し倒すと動きを封じるように覆い被さってきた。

『お前の歌声は美しい。その声の持ち主も、私のものにしたい』

 その言葉の意味を理解するまでに時間はかからなかった。

 乱されたドレスの胸元に男の手が滑り込もうとする感覚がやけに生々しく、全身が凍りついたように動かない。

 酒臭い吐息の生温かさ、掴まれて押さえ付けられる手首の痛み、男の手が首から鎖骨へ滑る感触——声を上げることすらできなかった。

 しかしガレス王が本懐を遂げることはなかった。強かに酔っていた彼は崩れるように倒れ、そのまま寝息を立て始めた。自室に逃げ戻った時、オフィーリアは気がついた。自分の声が出なくなっていることに。


 その記憶は今もオフィーリアの中で冷たい氷のように凝り固まっている。

 だがガレス王にとっては、きっと取るにも足らない些細なことだったのだろう。翌日にはオフィーリアを離宮に閉じ込めてしまえるくらいには。

 そうして歌姫はこの世から消えたのだ。


「——精々、あの若造に媚を売って気に入られることだ」

 ガレス王は再び書類に目を戻し、「三日後には迎えが来る。支度をしておくように」と告げた。彼はこちらの返事など初めから期待していない。

 ドレスの隠しには紙と鉛筆を忍ばせていた。しかし、それを取り出して一体何を書けばいいのか、オフィーリアにはわからない。


 話は終わりだとばかりに王が手を振れば、退出を促すべく護衛の兵士たちが近付いてくる。

 それから逃れるように、オフィーリアは礼も忘れて執務室から飛び出した。継ぎだらけの粗末なドレスの裾をからげて王宮の長い廊下を早足で進む。


 高い天井に足音が響くたび、それが自分のものだとは思えなかった。身体の奥底に根を張った冷たさが動き出し、胸の奥を締め付けるような感覚が広がる。

 振り返ればガレス王の冷酷な声と目が背後から追いかけてくるような気がする。怖い、恐ろしい、逃げ出したい——


(——どこへ逃げるっていうの?)

 どこか物事を冷静に俯瞰しているもう一人の自分が、耳元でそんなことを囁く。


 オフィーリアは足を止めた。

 帰る家はない。迎えてくれる家族もいない。逃げることも、拒むこともできない。これは王命なのだ。

(結婚……)

 この二文字がどれほどの意味を持つのか。オフィーリアにはわからなかった。それは希望なのか、それとも新たな牢獄なのか。


 ただ、この身体の所有権がガレス王からシュルテンハイム侯爵に移るだけ——それ以上でも、それ以下でもない。その思考すら、すでに自分を物としかみていない証なのかもしれない。


 大きな窓の外に目を向けると、灰色の空が果てしなく広がっている。雲間からわずかに漏れる光が、かすかな暖かさを予感させる。

 しかし、それはどこか現実味を欠いているように見えた。あるいは、もう光を感じる資格すら失ったのかもしれない。


外務卿=外務大臣のことです。

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