第十九話 自分の声で話すこと
自分の声を取り戻してから、オフィーリアの日常は少しずつ変わりはじめていた。
まだ若干、言葉が上手く出てこないことがある。しかし誰もぎこちない。
ベルナや侍女たちとは、もう何の違和感もなく会話を交わしている。「お茶をお願いします」「ありがとう」そんな当たり前のやりとりが、どれほど嬉しいことか。筆談では表現しきれなかった想いが、声と共に自然に溢れ出る。
そんなある朝、ベルナと共に廊下を歩いていると、曲がり角でクラウスと鉢合わせた。蒼い瞳がこちらを捉えた瞬間、彼の表情がわずかに固まる。
高い上背、磨き抜かれた銀髪に整った顔立ち。威圧感を感じさせる佇まい。まだ男性には苦手意識があり、対峙すると喉の奥がぎゅっと締め付けられるような息苦しさを覚える。
でも彼もまた、悪い人ではないことを知っている。エステリエからの旅路で、見窄らしい格好の自分にも敬意を払って接してくれた。あれはその場限りの愛想ではないと、今はよくわかる。
「……おはようございます」
思い切って声をかけると、クラウスはどこか安堵したように、静かな笑みを浮かべた。
「おはようございます、お嬢様」
そう言って、彼は丁寧な一礼を返してくれる。その背中が廊下の向こうに消えるのを待って、オフィーリアはベルナと顔を見合わせた。
大丈夫。ちゃんと話せる。会話ができる。その確信が少しずつ、前を向かせてくれていた。
テオバルトとの関係にも微妙な変化が訪れていた。以前のように必要最低限のカードでのやり取りだけではなく、ふとしたタイミングで言葉を交わす瞬間が増えている。廊下ですれ違えば短い立ち話をすることもあった。
外務卿という立場故なのか、彼は多忙で、屋敷で過ごす時間は思いのほか少ないようだった。頑張って早起きしてサロンに向かってみても、花瓶の花は既に入れ替えられている。夜も、オフィーリアが寝台に潜り込んだ頃にようやく帰ってくる気配を感じた。
そんな日々の中、テオバルトからのカードを受け取ったのは太陽が沈みかける頃だった。
『今夜は公務のため不在にします。どうぞ、ご無理のないようにお過ごしください』
以前なら『いってらっしゃいませ』と書き添えたカードをベルナに渡すだけで十分だった。
けれど今は違う。文字を通してではなく、この声で、伝えることができる。
「あの、ベルナ、テオバルト様は、もう……?」
「もうじき屋敷を出られると聞いております」
時計を確認して、ベルナが答えた。
「お見送りをするのは……ご迷惑かしら?」
思い切ってそう尋ねてみると、ベルナは少し驚いたように目を瞬かせた。けれどそれも一瞬で、すぐに笑みが浮かぶ。
「ご迷惑だなんて、そんなことあるはずございません。きっとお喜びになります」
残された時間はわずかだった。部屋を出る直前、オフィーリアはすぐそばの姿見を覗き込む。
毎日ベルナがきちんと整えてくれる髪。繊細な刺繍が施された清楚なドレス。どこかおかしいところはないか細部まで気になってしまう。
(でも大丈夫……大丈夫よ、私ならできるわ)
玄関ホールに向かう足取りはわずかに震えていた。心を落ち着けようと深呼吸を繰り返しながら扉をくぐる。
そして、そこに立つテオバルトの姿を見て息を呑んだ。
彼はいつもの執務服とはまるで違う装いをしている。深い海の色のような濃紺の上着は夕陽に照らされて静かな輝きを放ち、襟元から裾にかけて描かれた銀糸の刺繍が光を受けて優美な流れを作る。
凛とした立ち姿は彫像のようでいて、どこか人の温もりを感じさせる。窓から差し込む光が、金褐色の髪を柔らかく染めている。琥珀色の瞳に宿る静かな威厳と、どこか切なくなるような美しさ。
(テオバルト様は……こんなにも素敵な方だったのね)
歌姫と呼ばれていた頃、数多くの貴人と顔を合わせた。国内の貴族から他国の王族、官僚たち。けれどその中の誰よりテオバルトは凛々しい。きっと誰もが自然とその存在に敬意を払わずにはいられないだろう。
「オフィーリア嬢」
こちらに気づいた彼の、低い声が響いた。オフィーリアは緊張を押し殺し、数歩、彼に向かって歩み寄る。
「テオバルト様。いってらっしゃいませ……どうぞ、お気を付けて」
震えながら紡いだ言葉を、彼がどんな風に受け取るのだろうか——そんな不安はテオバルトの微笑みがその心配を静かに溶かしていった。
「ありがとうございます。あなたからそんな言葉をいただけると、励みになります」
たった一言だが、いつもの丁寧な物腰に加えて、どこか柔らかな温もりを感じさせる声音だった。彼の瞳がオフィーリアを見つめ、その琥珀色の奥に穏やかな光が揺れる。
テオバルトが軽く頷き、馬車へと向かおうとしたその時だった。ふと足を止め、彼はオフィーリアの方へ振り返った。
「もし、よろしければの話ですが……」
彼の声はどこか、慎重な響きと微かな焦燥を帯びていた。
「明日の朝、朝食をご一緒していただけますか?」
その言葉に、オフィーリアの胸が高鳴るのを感じた。心臓の鼓動が耳の奥で響き、彼の申し出が一瞬信じられなかった。
「……私と?」
思わず漏れた間の抜けた声が、自分でも信じられないほど震えていた。彼の琥珀色の瞳が、真っ直ぐこちらを見つめている。
その視線は決して威圧的ではなく、むしろ自分の選択を委ねるような、そんな優しさを湛んでいた。
「はい。あなたと、です」
彼は静かに微笑んだ。その表情にはどこか彼自身の緊張も見えた。
「無理にとは言いません。ただ、最近のあなたの変化を拝見して、もしあなたが心を許してくださるならと思いまして」
オフィーリアは思わず足元に目を落とした。頭の中では様々な想いが渦巻く。また歌えない自分に、彼の誘いを受ける権利などあるのだろうか。この申し出を受けてもいいのだろうか。
心の奥底に巣食っている劣等感が頭をもたげて、高いところから自分を見下ろしている。
でも——あの雨の庭で、彼は確かに自分の声を受け止めてくれた。少しずつ変わろうとする自分を、否定せず、ただそっと見守ってくれている。
実態は伴っていなくとも、オフィーリアはテオバルトの結婚相手としてこの屋敷に連れてこられた身。身寄りも後ろ盾もない女をどう扱おうと自由なのに、彼は食事の誘いすらオフィーリアの様子を伺ってくれる。何一つ無理強いせず、オフィーリアを尊重してくれる。
その誠実さにもっと触れたい。もう少しだけ近付いてみたい。もし失望されたらと思うと怖いけど、それでも——
オフィーリアは震える手でそっとドレスのスカートを握った。磨かれた大理石の床を這っていた視線を、ゆっくりと持ち上げる。
「……はい。ぜひ、ご一緒させてください」
「ありがとうございます。では、明日の朝、よろしくお願いします」
テオバルトの後ろ姿が馬車へと消えていく。頬に触れた指先が熱を持っているのを感じる。きっと顔が赤くなっているに違いなかった。
でも不思議と、その事実に恥ずかしさは感じない。むしろ、胸の奥で暖かなものが自然に膨らんでいくような感覚があった。




