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第十八話 雨音と、願い*

 いつものように執務室の窓から庭を見下ろすと、そこにオフィーリアの姿を見つけ、テオバルトは思わず目を細めた。

 侍女たちとは筆談での会話が弾むようになり、サロンや庭で過ごす時間が増えてきている。それでも彼女はまだ声を失ったまま。抱えているだろう傷はまだ癒えていない——その事実には複雑な思いを抱えていた。


 屋敷に連れてきた頃のオフィーリアはあまりにも不安定で、まずは心身の回復を最優先にするべきだと判断した。

 しかし今なら医師の診察を受けさせることも可能かもしれない。そう思いながら動かずにいるのは、声を取り戻そうとする態度を示すことが、逆効果になりかねないという懸念があるからだ。

 声を失ったことは、ただの発音の不能ではなく、彼女にとっては存在意義そのものを奪われたような痛みであるに違いない。そこにどう手を差し伸べれば良いのか、テオバルトには判断がつかなかった。


(どうするのがリアのためになるのか……)


 答えの出ない問いに思案していると、窓の外で雨音が響き始めた。庭のオフィーリアが本を抱えて立ち上がる。近くに侍女はいないのか、そのまま樹に背中を預けるようにして立ち尽くす。その姿を目にした瞬間、テオバルトは部屋を飛び出していた。

 その傍まで辿り着いた時、驚いたようにこちらを見上げる青灰色の瞳がとても美しく、思わず息を呑んだ。同時に、彼女が自分に許してくれた距離を勝手に超えてはいけないと自戒する。

 

「急な雨でしたね。屋敷までお送りしましょう」


 そう声を掛ければオフィーリアはややあって小さく頷く。本を胸に抱く細い腕が、わずかに強張るのが見えた。

 寄る辺なさそうに彷徨う視線が、やがてゆっくりとテオバルトに向けられる。

 オフィーリアの唇が動いた。一瞬息を吸い込むような仕草を見せて、それから——


「……ありがとうございます」


 小さく、震える声。それでもはっきりとその声はテオバルトの耳に届いた。


 オフィーリアもまた、自分の発した声を聞いて驚いているように見える。本当に今この瞬間、初めて彼女の声が戻ったのだ。

 そして、その最初の言葉が自分への感謝だったということに、テオバルトは深い感慨を覚えた。

 しかし今、なにより必要なのは冷静さだった。手放しに喜ぶのではなく、静かに受け止めなければならない。


「どういたしまして」


 その瞬間、オフィーリアの頬がわずかに赤らんだ。ほっとしたような表情の変化が見て取れる。それまでより少しだけ肩の力が抜けたようだった。

 緊張と共に持ち直した傘の中へ、オフィーリアがそっと入ってくる。雨粒を宿した白金の髪が揺れるたび、宝石を散りばめたように輝く。

 こうして並んで歩くと、彼女の華奢な体躯を改めて実感した。頭二つ分ほど小さな背丈。歩くたび揺れるドレスの裾が時折、こちらの足に触れそうになる。

 この近さがそのまま心の距離とは思わないが、少なくとも少しは心を許してくれたのではないか。そう自惚れそうになる。


 彼女が初めて発した声が、自分への感謝の言葉だった。その事実だけで、テオバルトには十分すぎるほどだった。

 長い沈黙を破って声を発することが、彼女にとってどれほど勇気のいることだったか。その一歩を踏み出したオフィーリアを、テオバルトは心から誇らしく思った。


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