第十七話 雨の庭と、声
庭は春の香りで満ち、風が葉を揺らすたびに小鳥が飛び交っていた。
オフィーリアは手元の詩集に視線を落とす。
文字を追ううちに、旋律が自然と頭の中に広がっていく。かつては歌えない痛みを突きつけられるのが怖くて、本を開くことさえできなかった。けれど今は違う。失った歌声を思い出しても、心に満ちるのは優しい懐かしさだった。
無価値な自分を責めそうになる時、いつもテオバルトからもらった言葉が胸に浮かぶ。
『前に進もうとするあなたの変化を、心から誇らしく思います』
綴られた短い言葉が、心の奥に静かに灯る明かりのよう。その光に照らされるたび、胸の痛みが和らぐのを感じる。
オフィーリアはそっと、肩に掛けているショールを指先で撫でた。精緻な花模様が織り込まれたそれは先日、テオバルトが贈ってくれたものだ。
庭で過ごす時間が増えたのならばと是非と、言ってくれた。そうした些細な変化を彼はきちんと見てくれているようだった。
その礼を、声で伝えたかった。文字ではなく、自分の声で。言葉で。
(——どうしてまだ喋ることができないの?)
髪と肌はすっかり以前のような艶を取り戻した。けれど声だけは、どうしても戻らない。話そうとすると喉の奥がぎゅっと締め付けられるような息苦しさを覚える。
筆談には慣れてきた。ベルナと交わす言葉も、彼女の優しい笑みがあれば自然とやりとりが続いていく。
テオバルトとは毎日のようにカードを送り合っている。それでも、どうしても満たされない空虚さが心の片隅に残り続けている。
風が変わったことに気づいたのはその時だった。先程までの穏やかな空気が冷たく重たくなり、空を見上げれば灰色の雲が広がっている。
ぽつり、ぽつりと降り始めた雨はあっという間に勢いを増し、石畳を濡らしていく。
慌てて屋敷に戻ろうとしたオフィーリアだが、思ったよりも雨脚は速かった。裾の重いドレスが脚の動きを阻む。雨の中を走って屋敷へ戻る勇気はなかった。本と、それから、ショールが濡れてしまう。
オフィーリアは椅子から立つと樹の幹に背を寄せる。枝葉によって、どうにか雨から逃れることはできそうだった。
その時、雨音の中に何かが微かに響いた気がした。視線を上げた瞬間、頭上に影が差す。
そこにはひとつの傘と、それを差し出すテオバルトの姿がある。
「……!」
オフィーリアの心臓が跳ねた。視線の先で、テオバルトは穏やかな笑みを返してくれる。
雨の冷たさとは対照的な、その瞳の優しさに息を飲む。ほんの一瞬だけ視線が重なると、その琥珀色の瞳に優しい色が灯っていることに気づく。
「急な雨でしたね。屋敷までお送りしましょう」
静かな声に、オフィーリアは頷くことしかできなかった。胸の中で心臓がとくとくと鳴っている。
テオバルトは一歩離れた位置から、腕を伸ばして傘を差し掛けてくれている。だから彼の肩と背中は雨に濡れていた。その距離は彼の配慮そのものだった。
申し訳なさと共に、切ない気持ちが胸を掠める。伝えるべき気持ちがある。何かを言おうとした唇が震えて——それで終わるはずだったのに。
「……ありがとうございます」
それが自分の声だと気付くまでに、ほんのわずかな間があった。少し掠れた、小さな声。しかし、確かに自分の声だった。
「どういたしまして」
特別な驚きもなく、あくまで自然に返される言葉がまっすぐに沁みた。その受け止め方に、オフィーリアの胸は熱を帯びる。
オフィーリアはテオバルトの横顔をそっと覗き見た。薄暗い空の下で金褐色の髪が顔に張り付き、端正な顔立ちを際立たせている。
差し出される傘の下、並んで歩くことにもう恐れはなかった。
雨は静かに降り続いていた。その音が、新しい何かの始まりを告げているようだった。




