第十五話 埋まらない距離に恋う
執務室の窓から庭を見下ろすと、オフィーリアの姿が目に入った。慎重な足取りで小道を歩き、花壇の前で立ち止まると、屈んで一輪の花にそっと触れている。
風が吹くたびにドレスの裾が揺れ、白金の髪が広がる。その姿はまるで庭の花々と共に、彼女自身が花開いていくかのようだった。
テオバルトは手元のカードに目を落とす。今朝、オフィーリアから届いたものだ。
『庭で草花に触れる時間が、とても心地良いものだと気付きました。侯爵様のお心遣いに感謝いたします』
簡潔ながらも丁寧に綴られた言葉には、彼女の礼儀正しさと慎ましさが滲んでいる。
しかし礼儀正しく綴られた言葉の向こうに、彼女の本当の心が見えないことが、どこか切なかった。
(この結婚の意図を説明していない以上、それも仕方がない)
離宮から連れ出すための建前として結婚を持ち出したこと、誰と、どこで生きるかは彼女の自由なのだということ。その真実を伝えることは、彼女への誠実さの証でもあった。
しかしその話を切り出すのは早計な気がしていた。今の彼女に、自由という言葉が必ずしも希望を持つとは限らない。
その時、控えめなノックの音が響く。「入れ」と指示を出せば、クラウスが静かに入室してくる。その手には封蝋のされた書簡があった。
「こちらが、エステリエのエリオン殿下より届きました」
その名前を聞いた瞬間、テオバルトの眉がわずかに動く。クラウスは手紙を丁寧に机上に置くと、そのまま一歩後ろに下がった。
リアへ——そう書かれた封筒を手に取る。最高級の紙で作られたそれにはエステリエ王家の封蝋が施されている。それを見た瞬間、わずかな苛立ちが胸を掠めた。
彼らがオフィーリアをどのように扱い、どのような姿で送り出したか。そのことを忘れてはいない。
「まだ渡すべき時ではない。開封もしなくていい。その時が来るまで保管しておいてくれ」
即座の判断に、一片の迷いもなかった。
ようやく前を向き始めた彼女の心を、無用に乱すわけにはいかない。
クラウスが封書を保管用の箱にしまうのを視界の端で捉えながら、テオバルトは息を吐く。今の自分にとって最優先にするべきはオフィーリアの安息であり、その判断は間違っていないはずだ。
「用件はそれだけか?」
そう尋ねると、クラウスは手に持っていた書類の束を机上に置く。
「こちら、今年の雪解け後の農作物の植え付け状況と、春祭りの計画についての報告書です」
侯爵位と共に大公から賜った領地は、この公都から離れた場所にある。交易路にとって重要な中継地点でもあり、今後の発展が期待されていく土地だ。
クラウスが手渡した書類には、畑の様子や領民たちの生活についての細かな記録が綴られている。テオバルトはその内容に目を走らせながら、時折気になる箇所に目印をつけていく。
「灌漑の整備工事は進んでいるようだが、これでは予算が不足気味ではないか」
「はい、昨年の嵐で大きな損傷を受けた箇所が想定以上に多かったためです」
「追加の予算を手配しよう。余剰金を使い、足りない分は今年の収穫を見てから補填する形で進めてくれ」
必要なやり取りを経て、ふとクラウスが口元を緩めた。
「春祭りですが、今年はご出席なさいますか?」
テオバルトは報告書に目を落としながら、花々に溢れる美しい街並みを思い出す。
昨年はどうにか都合を付けたが、流石に今年は難しい。首を振って応えれば、クラウスもまた黙って頷く。
「では最後に。あちらは、どうされるおつもりですか?」
それは報告というより、指摘に近かった。机の端に置かれている女性物のショールは、明らかにこの部屋には不釣り合いだった。
庭で過ごすことの増えてきたオフィーリアのためにと用意したそれは、しかし彼女の手に渡ることなく、この部屋に残されている。
「……ベルナに届けてくれ。彼女から渡してもらう」
「直接お渡しにならなくてよろしいのですか? 喜んでいただけると思いますが」
クラウスの淡々とした声が、今ばかりは妙に気に障る。果たして本当にそうなのか自信が持てないなどと、口にすることはできなかった。
サロンに花を飾るのはあくまでも屋敷を整え、心を落ち着かせるための支度なのだ。しかしこれを直接渡すことは、彼女の心や身体に触れることと同義だ。
せっかく前を向き始めてきた心に負担を与えるのではないかという恐れが、テオバルトを躊躇わせた。
「お嬢様のお心の安息には、テオバルト様と信頼関係を築くことも重要かと。贈り物を通じてそれをお伝えすることは、支えになれど負担にはならないかと思います」
クラウスの言葉は、まるでこちらの迷いを見透かしたかのように的確だった。「わかった」と答えれば、彼はどこか満足げに部屋を去っていく。
テオバルトは息を吐き、視線を再び窓の外へ向ける。
視線の先で、オフィーリアはベルナと何か話していた。筆談もどこか慣れたように手際が良く、二人は幾度もやりとりを交わしている。初めて屋敷で対面した時の様子と比べると、まるで別人のようだ。
オフィーリアの顔に浮かんだ微笑み。その一瞬の表情の変化に、テオバルトは思わず息を呑んだ。
(——リア、今のあなたはそんなふうに笑うのか)




