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第十三話 光の揺らぎ

『今日の紅茶は何ですか? とてもいい香りですね』


 オフィーリアがそう書いたカードを差し出すと、ベルナは微笑んで答える。


「アールグレイです。香りが良くて渋みが少なく、飲みやすいお味です。ミルクを足しても美味しいですよ」

『試してみたいです』

『では、次はそう致しましょうね』


 ベルナとの何気ないやり取りの中で、紅茶の銘柄や庭に咲く花の名前、街で流行している小説や菓子のことまで知ることができた。

 悪夢を見た朝に飲んだハーブティーはカモミールだとも教えてもらった。少量の蜂蜜を入れて飲むとより甘くて美味しいことも知った。

 あれからベルナは寝る前に欠かさず、ハーブティーを用意してくれるようになった。あの夜以来、悪夢は見ていない。


 筆談という形であれ、こうして誰かと言葉を交わせることが楽しい——そんなふうに感じるようになった自分に、オフィーリアは驚く。もうそんな日は二度と来ないと思っていたから。

 新しい世界が少しずつ広がっていく感覚は、どこか楽しく、心踊るものだった。


 ふと視線を窓辺の花瓶に向けると、また昨日とは違う花々が迎えてくれる。優しく控えめな色合いで、一つとして派手な印象はない。それが不思議と今の自分に合っている気がしてならない。


『春の兆しを感じられるこの日々が、あなたの心にも温かさを運んでくれますように』


 控えめで、それでいて優しさに溢れる一言。今朝届いたカードに綴られていた文字が頭をよぎる。

 カードには一輪の花が添えられていた。茎に結ばれた白いリボンが、彼の手によるものかもしれないと想像するだけで、オフィーリアの心は柔らかく波打つ。

 窓から差し込む光、紅茶の香り、そして花瓶に生けられた美しい花々——すべてがあまりにも穏やかで、あまりにも心地良い。


(……でも、こんな生活に慣れてはいけない)


 その思いは、まるで晴れた空に突如として現れた暗雲のよう。

 この贅沢で安らかな日々が、自分にふさわしいはずがない。まるでこの時間、この空間そのものが罪であるかのように、心に影が落ちる。

 すべてを失い、何の価値もない存在——その事実を忘れてはいけないのだと、オフィーリアは自分に言い聞かせた。


(私が本当はどんな人間かをご存知ないから、優しくしてくださるだけ)


 隠していることをすべて明かせば、この生活は終わる。気遣いの言葉は嘲笑に、温かな眼差しは侮蔑に変わる。帰る家も迎えてくれる家族もいない自分は、この屋敷を追い出されたらどこに行くのだろう——

 寄る辺のない気持ちに胸が締め付けられる。視線を落とした膝の上で、手をぎゅっと握りしめた。


「お嬢様? どうかされましたか?」


 ベルナの声に、オフィーリアははっとして顔を上げた。いつも通り優しいベルナの笑顔を見て、なんでもないと首を横に振る。

 紅茶を飲み干すとペンを手に取り、カードに記す。


『部屋に戻ります』


 普段ならまだもうしばらくサロンで過ごしている時間。ベルナは少し驚いたような顔をしたが、いつだって彼女はオフィーリアの言うことや、やることを否定はしなかった。


「かしこまりました。少々お待ちくださいね」


 テーブルの上を片付けはじめるベルナにオフィーリアは二枚目のカードを見せた。


『一人で戻れます』


 わずかに乱れた文字。ベルナは一瞬、戸惑いの表情を浮かべた。これまでオフィーリアが付き添いなしに屋敷内を出歩いたことはなかった。

 そうしてこちらの心情を推し量ろうとする気遣いの眼差しさえも今は心苦しく、オフィーリアは席を立つと、ベルナに背を向けて逃げるようにサロンを後にした。

 

 廊下を歩くたびに、空間がどんどん広がっていくように感じる。足音が絨毯に吸い込まれ、周囲の静けさが耳鳴りのように押し寄せてきた。


 あの、離宮での日々。広い廊下、冷たい石壁、遠くで聞こえる嘲笑。それらが混ざり合い、自分がこの世界から切り離されていく感覚に襲われる。

 いつも通る道のはずなのに、見慣れたはずの装飾や扉が違って見える気がする。ほんの少し進むだけで、どの道が自分の部屋へと続くものだったか、まるで見当がつかなくなっていた。


 そして立ち止まり、周囲を見回した時、心にふと暗い影が広がる。


(あの時も、誰にも助けてもらえなかった……)


 喉を撫でる指先に冷たい汗が滲む。声を失った自分はもう何もできないのだという無力感が再び顔を擡げる。

 焦るような気持ちで重たい足を動かし、廊下の角を過ぎた瞬間、足音が重なる気配にオフィーリアは立ち止まった。同時に、目の前に立つ影も動きを止める。


 目の前には——シュルテンハイム侯爵がいた。

 

 突然の邂逅にオフィーリアは驚いて息を呑み、思わず後ずさる。

 ほんの少しだけ距離が開いたが、侯爵は咎めるようなこともせず、こちらをじっと見つめていた。その眼差しには、静かな理解と配慮が宿っているように見えた。


 琥珀色の瞳がオフィーリアの動揺を細やかに捉え、侯爵はごくわずかに眉を顰めた。しかしその表情はすぐに消え、代わりに穏やかな声がオフィーリアの耳に届いた。


「オフィーリア嬢。お一人ですか?」


 緊張したまま、オフィーリアは小さく頷く。


「お部屋に戻られるところでしたか?」


 再び頷きで応える。

 カードとペンを、今に限って持っていなかった。ただ仮に持っていたとしても、この場で取り出して筆談をすることはできなかっただろう。

 何もかも完璧に見える侯爵の前で、言葉を交わす手段が筆談しかない自分がひどく惨めだった。何も言えないもどかしさが胸にじわりと広がる。


「私でよろしければ、お部屋までお送りいたします」


 その申し出に、オフィーリアは目を丸くした。

 侯爵の後ろに立つクラウスは何冊かの本と紙の束を持っている。二人が仕事中なのだとしたら、こんなことで手間を取らせるのは申し訳ない。

 けれど、他に頼れる人間はいない。これ以上この広い屋敷を一人で歩き回るのはあまりにも心細く、その申し出を断って再び廊下を彷徨うことだけは、どうしてもできなかった。


「どうぞ、こちらです」 


 侯爵はオフィーリアの横を通り過ぎ、そのまま進んでいく。つまり、まったく違う方向に進んでいたということだ。戸惑いながらも、オフィーリアは侯爵の後を少しの距離を開けながらついていった。


 歩いていると、自然と侯爵の後ろ姿に目が止まった。金褐色の髪は少し癖があって、毛先がくるりと丸まっている。それは歩くたび柔らかく揺れ、窓から差し込む陽光を浴びて輝く。


(——案内なんて、侯爵様が自らやるようなことではないでしょう?)


 クラウスに命じることもできたはずだ。それなのにわざわざ時間を割いてくれる、その優しさをどう受け取っていいかわからない。

 物思いの時間はほんの僅かだった。見覚えのある廊下を通り、侯爵が「こちらです」とオフィーリアの部屋の扉を開けてくれる。

 

 侯爵の視線がふと部屋の中へ向けられる。テーブルの一輪挿しには、今朝届けられた花を飾っていた。

 

「……あの花は庭に咲いていたものです」


 低い声が静寂を破る。侯爵はふっと視線をオフィーリアに戻し、続けた。


「少しずつ、春めいてきましたよ」


 幾重もの光が重なったような——美しい色の瞳にまっすぐ見つめられると、胸の奥をくすぐられているような不思議な感覚に陥る。なぜその言葉に、もっと深い意味があるかもしれないと思ってしまうのだろう。


 だがそれもほんの数秒のことだった。侯爵は視線を切り、軽く頭を下げると廊下の向こうへ足を向けた。

 その背中が見えなくなるまで、オフィーリアはその場から動けなかった。


(……どうして、こんなにも)


 彼の言葉や行動は必要以上に踏み込むことなく、その絶妙な距離感に居心地の良さを感じることもある。

 与えられる温かさに触れるたび、その裏にあるものが見えないことがオフィーリアの心に小さな疑問を残していた。


(結婚相手だから当然だと……そういうことなのかしら)


 そもそも、自分はそのために連れてこられたのだ。けれど、本当にそうなのだろうか?

 『お嬢様』という呼び方が、時折胸を刺す。しかし『奥様』と呼ばれる日が来ることはないことも、また理解している。

 ここに来てからしばらく経つのに、誰からも結婚についての話をされない。この屋敷で自分がどんな立場なのかわからない。勿論それを自分から尋ねることなどできるはずがなかった。


 自分のような無価値な人間に、どうしてここまでしてくれるのだろう。果たして自分はそれを享受していていいのだろうか。

 無償のものなどないと、オフィーリアは知っている。あの王宮で与えられていた豊かな生活と惜しまない賞賛は、オフィーリアが銀月の歌姫(ルナ・セラフィーヌ)であったからこそ。

 今の自分に、誰かに尽くしてもらう価値などあるはずもない。


(私は……こんな生活を送っていい人間ではないのに)


 オフィーリアはふと手元に視線を落とした。気付けば、手のひらがかすかに震えている。思わず喉元にそっと触れる

 喉を撫でる指先が、まるでそこにかつての自分を探しているかのようだった。しかしそこから言葉が発せられないことを改めて痛感し、苦笑ともため息ともつかない小さな吐息が漏れた。


(声があれば、どんな言葉を紡げたのかしら……)


 オフィーリアは部屋の扉をゆっくりと閉じると、テーブルの上に飾られた一輪挿しに目を留めた。

 窓から差し込む光が花びらを柔らかく照らし、その影がテーブルの上で小さく揺れている。

 まるで自分の心のように、光と影の間で静かに揺れながら、確かな春の訪れを待っているかのように。

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