第十二話 花が語るもの
(この花を……侯爵様が?)
再び一人きりになったサロンで、オフィーリアは信じられない思いでいた。
花瓶には、彼が活けたばかりの瑞々しい花々が美しく整えられている。その均整の取れた姿が不思議なほど目に優しい。
今までサロンに飾られている花について深く考えたことはなかった。ただ、日々変わる花が美しいと思うだけだった。それが彼自身の手によるものだったとは——
(どうして、そんなことを……)
高い地位にある人が、わざわざ自ら花の世話をする理由がわからない。植物を愛でることが好きなのか、それとも、他に理由があるのか。オフィーリアには到底思い付かなかった。
ふと、ほんの少し前のことを思い出す。
あの瞬間、自分の目の前に立っていた彼の姿——
太陽の下で、黄金のように輝く髪。こちらを見る琥珀の双眸は穏やかで、侯爵の人柄をそのまま映しているようにも思えた。
なにより、オフィーリアが作り出した距離に、彼は踏み込んでこなかった。きっとそうわかっていたからこそ、逃げ出さずにその場に留まるという選択ができたのだ。
毎朝のようにカードに綴られる短くも優しいメッセージも、もしかしてこの花のように、願いを込めて綴られているのだとしたら——まるで自分が彼にとって特別な存在だと、勘違いしてしまいそうになる。
(どうして、私なんかに、こんな……)
歌姫としての名声も、王家の後ろ盾も、声そのものさえ失い、何の価値もない自分を妻に迎えることに政治的な意味があるとは思えない。
——では何故、彼はあんなにも心を砕いてくれるのか。
歌姫と呼ばれていた頃、言葉を交わした相手の顔と名前はすべて覚えている。彼が直接の面識はないはずだ。
外務卿という立場にあるなら、オフィーリアには想像が付かないような事情があるのだろうか。
その思いが頭をもたげるたび、静かな乱れが胸を満たす。それでも、先ほどの彼の琥珀色の瞳を思い出すと、その優しさが嘘ではないのではないかという気持ちがほんの少しだけ顔を出した。
けれど、そんな彼の優しさを信じたいと思う自分が、どこか恐ろしかった。
手に持っていた花を花瓶に戻す。空いた手で触れる喉には、未だ空虚があるばかり。この穏やかな生活の中でも、声が戻る気配はない。
そのとき扉の向こうから聞こえてきた軽やかな足音が、沈みかけていた思考を引き上げる。
続いて扉がそっと開き、朝食の手配をするため席を外していたベルナが部屋へと入ってきた。
「お嬢様、お待たせして申し訳ございませんでした」
彼女はにこやかな笑みを浮かべ、いつも通りの穏やかな様子でオフィーリアを見つめている。
その視線には、何か特別なことを知っている様子は微塵もなかった。
「今日のお花も綺麗ですね。お嬢様に気に入っていたなら嬉しいです」
何気ない言葉に、オフィーリアはふっと肩の力を抜いた。声の代わりにカードにペンを走らせる。
『花は、見る者の心まで優しくしてくれるものですね』
先程まで侯爵がここにいたことは、まだ伝えなくていいと思った。そのうちベルナの耳にも入るはず。だからそれまでは、まだ。
一輪一輪の花が織りなす風景は、確かに美しかった。けれど今は、その美しさよりも、花を整える彼の指先の記憶が、どこか胸の奥で温かく脈打っている。
それが何故なのか、まだ自分でもわからない。決して悪い心地はしない、それだけが確かだった。




