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百十五話 陽を知らずとも美しく

 陽の当たらない裏路地は、昼間でもどこかひんやりしている。風が吹くたびに手足の肌がぴりぴりしびれるようで、リアは思わず、繋いでいた手にぎゅうと力を込めた。


「ねぇぼく、お腹すいちゃったあ」


 下のほうから聞こえてきた声に、リアは足を止めた。視線を落とせば、小さな弟が眉を下げてこちらを見上げている。その後ろにも、同じような顔の弟妹たちがいる。

 そろそろ陽が落ちる頃だというのに、みんな朝からほとんど何も食べていない。

 しかし孤児院に食べ物はなく、何かもらえるものがないかお店を回ってみるしかなかった。


「そうだよね。でも、もうちょっとだけ我慢できる?」


 意識して明るい声を出したのは、自分自身の空腹を誤魔化すためでもあった。

 夜になれば、兄姉たちがいくらかのお金や食べ物を持って帰ってくる。それまで弟妹たちの面倒を見るのがリアの役目だった。


「あっちのパン屋さん——じゃなくて、ちょっと遠いけど、向こうのほうまで歩いてみよう?」


 余り物を分けてくれるお店にはいくつか心当たりがあった。ただ、毎回もらえるわけではない。

 売れ残りを分けてくれていたあの店も、つい先日、もう来ないでほしいと言われてしまった。

 そういうことは何度もあった。最初は優しかった人が、ある日突然、冷たい目を向ける。怒鳴られたこともあるし、追い払われたこともある。理由なんて聞けない。ただ、その場から立ち去るだけ。


「きっと大丈夫だよ」


 小さな手を引く指先に、ほんの少し力が入った。

 そして角を曲がった瞬間、リアは急に飛び出してきた何かにぶつかった。弾みで尻餅を付くと、地面に擦り付けた手のひらがじんと痛む。


「——っ、あぶねえな。ガキがうろちょろしやがって」


 頭の上から怒鳴り声が降ってきた。見上げると、知らない男の人がこちらを睨んでいる。

 謝らなきゃと思って口を開きかけたが、言葉より先に腕を掴まれて、そのまま乱暴に引き上げられた。

 手首が折れてしまいそうなくらい痛かった。でも声を出したら余計に怒られる気がして、リアはぎゅっと唇を噛む。

 

「ぶつかっといて謝りもしねえのか」


 そう吐き捨てると、男はリアの腕を放り投げるように離した。よろめいて、また地面に手をついてしまう。

 それでも座り込んだままでいられなかったのは、次いで男が弟妹たちのほうへ歩を進めたからだ。


「おい、邪魔だ。どけ」


 妹の頭を、男の手が乱暴に押しのけた。その勢いで小さな体が後ろに倒れ、壁にぶつかる。リアは反射的に「やめて!」と叫んだ。

 男の視線がこちらへ向く。苛立ちを隠さない顔。伸びてくる腕。怖い。けれど、小さな弟妹たちが酷い目に遭うくらいなら、自分が傷付くほうがずっといい。

 痛みに備えて、リアは目をぎゅっと閉じ、体を縮こめた。


 ——でも、いつまで経っても、なにも起こらない。


 恐る恐る目を開けると、あの男が地面に倒れていた。

 そのすぐ隣には、見知らぬ男の人が立っている。路地には似つかわしくない綺麗な服に、磨かれた靴。

 呻きながら身を起こそうとした男に向かって、その人はためらいなく蹴りを放った。男は再び崩れ落ち、今度は動かなくなる。


 怯えたように縋りついてくる弟妹たちを、リアはしっかりと抱きしめた。

 男の人は何か言いかけたようにも見えたが、リアには耳を貸す余裕もない。弟妹たちの手を引いて、その場から逃げ出すので精一杯だった。


 ◇

 

 乱暴な人や酔っ払いには近付いてはいけないと院長先生からいつも言われている。

 それと同じくらい気をつけなさいと教えられていたのが、綺麗な格好をした人。優しそうに見えても何を考えているかわからない。酷いことをされても、こちらが悪者にされてしまう。

 ——じゃあ昨日のお兄さんは、どうだったんだろう。

 

 そんな考えは「リア、なにか歌って」という声に遮られた。

 いつもの裏路地。表通りから角をいくつも曲がってようやく辿り着くこの場所は、他と違って少し開けている。誰にも見つからずに遊べる、お気に入りの場所だった。

 弟妹たちのきらきらした眼差しを受けて、リアは「いいよ」と微笑み、息を吸い込む。

 昔から、歌は好きだ。楽しい気持ちになれるし、お腹が空いていることも少しだけ忘れられる。何よりも弟妹たちが喜んでくれるのが嬉しかった。

 歌い終わるたびに次をせがまれるリアが三曲目の最後の一音を歌い終えた時、弟妹の一人が「あっ」と小さく声を上げた。

 つられて視線を向けると、向こうの曲がり角に人の姿が見えた。


 模様の入った綺麗な服。きらきらした釦。

 この路地には似合わない——自分たちとは違う、触れちゃいけないもの。

 その足が一歩、また一歩と近付いてくるたび、弟妹たちの体が強張っていくのがわかった。縋り付く小さな手が、リアの服をぎゅっと掴む。

 胸の奥がひやりと冷たくなるのを感じて、リアは息を詰めた。

 

「あの人だあれ?」

「ねえリア、もう帰ろ」

「うん、そうだね」


 囁くように言い交わしながら、リアは弟妹たちを連れてその場から立ち去ろうとした。

 背中を向け、走りかけた足を止めたのは「待ってくれ」と、どこか焦ったような低い声が呼び止めてきたからだった。


「お前たちには何もしない。そういうつもりで来たわけじゃないんだ」

「…………」


 リアは思わず、彼の顔をじいっと見つめた。その言い方はどこか、悪戯を咎められた弟妹が言い訳を重ねるときのそれに似ていた。


「昨日、あの男の仲間を一人取り逃した。まだこの辺りにいるかもしれない。だから遊ぶなら、別の場所に行けよ」

「……じゃあ昨日は、助けてくれたの?」


 少しの沈黙のあと、彼は目を逸らして一度だけ頷いた。

 昨日の出来事は、少なくとも自分たちに向けられた悪意ではなかった。その事実に、胸の奥がほんの少し緩む。

 リアは弟妹たちの顔を見ながら言った。


「みんな、先に帰ってて。すぐに追いかけるから」


 綺麗な服を着ている人はだいたい偉そうで、こちらの話なんてひとつも聞いてくれない。

 でもこの人は別の場所に行けと言いながら、追い払うような言い方をしない。それが不思議だった。もう少しだけ——話してみたいと思った。

 





 二〇二六年、初更新です。

 新しい年の始まりに、オフィーリアの「始まり」を書けてよかったです。

 連載開始からもうすぐ一年。完結までどうぞよろしくお願いします。


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