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百十四話 花園のなかで歌は眠る

 オフィーリアが湯浴みを経て居室に戻ると、部屋の各所に飾られた花が出迎えてくれる。

 それを見るとテオバルトの面影が浮かぶようで、オフィーリアは思わず微笑んだ。

 もう以前のように一日のほとんどをサロンで過ごすような生活ではないのに、それでも彼は今もサロンの花を毎朝入れ換えている。

 そうして下げられた花は屋敷の各所に飾られていたが、せっかくなら自分の部屋にと願い出て、オフィーリアが譲り受けるようになった。

 窓辺の花は昨日下げられたもの、飾り棚の花は一昨日のものだ。それがすべて自分のためだと思うだけで、胸が甘く満たされる。

 

ミラの件がひとまず落ち着いて、久しぶりに彼と長い時間を過ごすことができた。こんなにも心が弾むのは、そのせいかもしれない。

 テオバルトがその地を大切に思っていることを知っているからこそ、領地の運営に携わりたいと願い出るのは勇気の要ることだった。

 普段は穏やかに微笑んでいる人なのに、教える時には眼差しが真剣さを帯びて、声が低くなる。領地について語る時は、そこにほんの少しの熱がこもる——そんなことを考えていると、扉が叩かれた。


「お待たせいたしました」


 ハーブティーの用意を載せた盆を手に、ベルナが入ってくる。卓の上へ手際良く並べられるカップは二脚。ベルナが同じ席に着いてくれることもあり、眠る前のこの短い時間は日々の楽しみのひとつだ。

 椅子に腰を下ろしたオフィーリアは、カップのそばに蜂蜜入りの小瓶が添えられていることに気付いて、ふとベルナを見やる。視線の先でベルナが微笑んだ。


「今夜は特別です。新しいことをたくさん学んだ日は甘いものが効きますよ」

「……それなら、ベルナにも半分あげるわ。ずっと付き合ってくれたものね」


 自分は後ろに控えていただけだからとベルナは一度は拒んだが、半分残した小瓶を差し出すと受け取ってくれた。カップから立ち上る香りに蜂蜜の甘さが加わって、自然と頬が緩む。

 どちらからともなく今日の出来事を話しているうち、ふとベルナが眉を寄せた。


「奥様、本当に領地のお仕事までされるおつもりですか? 今でもお忙しいのに、あまり詰め込みすぎるのはお身体に障ります」

「もう無理して倒れたりしないから大丈夫よ。それに私がやるのはクラウスの補佐みたいなことだもの」

「難しそうなお話ばかりでしたよ。後ろで聞いていても私にはさっぱりで……」

「私もまだ概要しかわからないわ。今日はとにかく全部覚えただけよ」

「それでもあれだけの量、私には三日かかっても無理です……」

「覚えるのは得意なのよ」


 昔から——と言いかけて、オフィーリアは口を噤んだ。沈黙を誤魔化すように、カップを持ち直す。

 領地に関する仕事は思いのほか多岐に渡り、新たに学ばなければいけないことも多い。それでも、今日説明してもらったことは覚えられた。あの王宮で身に付けたものが、確かに今の自分を支えている。

  

「それでも今日はお疲れのはずですから、よくお休みになってくださいね」


 ベルナの声で、オフィーリアはふと我に返る。残り少ない中身を飲み干してカップを置けば、それが終わりの合図だ。

 

「ありがとう。ベルナもゆっくり休んでね」

「はい。おやすみなさいませ、奥様。ご用がありましたらいつでもお呼びください」


 そう言ってベルナが去っていくと、部屋に静けさが落ちた。

 オフィーリアは寝室へ向かうと寝台に腰を下ろし、すぐそばの小机に手を伸ばす。いつでも手に取れる場所に置いてあるそれは、深い飴色の木目が美しい、初めての街歩きの記念にと贈ってもらったオルゴール。蓋を開けると、優しい音色がそっと耳朶を撫でる。


 この国の子供は皆、この子守唄を聞いて育つのだという。昔の自分ならきっと自然と口ずさんでいただろう。でも今はただ、聴くだけ。 

 胸の奥がかすかに痛む。それでも、そんな自分を少しずつ受け入れられるようになってきた気がする。昔のように歌えなくても、今の自分にできることをしていければ、それでいいのかもしれない。

 

 オルゴールの音に耳を傾けながら、その中にしまってある金貨を取り出す。

 ただの孤児だった頃、はじめて歌で得た対価。自分の歌には価値があると教えてくれたもの。手のひらに落とされた二枚の金貨。あの輝きと重みを今も覚えている。

 その金貨のおかげで、しばらくのあいだ孤児院のみんながお腹いっぱい食べられた。人数分の毛布が買えた。空腹と寒さを知らない夜があんなにも幸せだとは思わなかった。

 歌でお金を稼げるかもしれない——その気付きは幼い自分にとってあまりにも鮮烈だった。実際に、日雇いで得る金額よりずっと多くを歌うだけで手にできた。道端で歌うようになり、少しずつ評判が広がっていき、孤児院の暮らしも楽になっていった。

 金貨は二枚とも孤児院のために使ってもらうつもりだった。しかし『大切に持っておきなさい』と、一枚は院長先生が返してくれた。それ以来ずっと手放さずにいる。

 

 手の中で、金貨が淡く光を返す。

 あれからもう十年が経とうとしている。生きる場所は何度も変わった。それでもこの輝きだけは、変わらない。


「……私の、歌姫としてのはじまり」

 

 歌えない自分を、それでもいいとテオバルトは言ってくれる。でも彼が最初に出会ったのは、惹かれてくれたのは、きっと歌姫としての自分。

 あの頃の自分を見せられないことが申し訳なくて、あの頃の自分に戻れないことが、ただ寂しい。


 ふと目を閉じると、記憶の奥に沈んでいたあの日が、静かに浮かび上がってきた。

 ——陽の当たらない裏路地で、弟妹たちと歩いていた、あの日の記憶。




 

 2025年最後の更新です。

 連載開始から約1年、少しずつ完結に近付いてきました。もう少し、お付き合いくださいませ。

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