百十二話 割れた鏡を覗くのならば
ここ数日、オフィーリアの変化には気付いていた。それでも外せない公務が続き、話し合うための時間が作れずにいたことは自分の未熟さ故だ。
改めて書斎で卓を挟んで向き合うと、オフィーリアはどこか緊張めいた面持ちで、言葉を選ぶように話しはじめる。
養父母に引き取られた子供が未だ酷い環境に置かれている——話を最後まで聞き終えて、テオバルトは静かに息を吐いた。
この件に彼女がどれほど心を痛めているかは想像に難くない。それでも自己判断で動かず、こうして相談してくれたのは正しい選択だった。感情に任せて動いてしまえば、かえって事態を複雑にしていたかもしれない。
「話してくださってありがとうございます、リア。あなたがそうして心配するのは当然でしょう」
そう声をかけてもオフィーリアの表情は硬いまま。まだ躊躇いを残すように口を開く。
「テオバルト様。これは、私が勝手に介入してはいけない問題だとは分かっています。ただ、あの子を見捨てることだけは、どうしても……できなくて。何か、良い手立てはないでしょうか」
その言葉に込められているのは、優しさばかりではないのかもしれない。テオバルトはふと、そんなことを考えた。
目の前にある現実に胸を痛めるだけでは、こんなふうには語れない。言葉の端々に、もっと深いところから引き出された痛みが滲むようで、それは酷く痛ましい姿だった。
幼い頃の記憶を決して語らない彼女が、今もなおその胸の奥に痛みを抱えているのだとしたら、それはどれだけ孤独な時間だったことだろう。
少しだけ間を置いてから、テオバルトは静かに口を開いた。
「この件については、すでに動いています」
「……そうなのですか?」
「はい。その子供は今朝、公都の施設に保護されました」
その言葉に、青灰色の瞳が静かに、何度か瞬く。
張り詰めていた緊張の糸が溶けていくように、オフィーリアの肩から力が抜けていくのがわかった。
「あなたが相談を受けた翌日に孤児院から手紙が届いたので、事情は把握していました。執政にも共有したところ、迅速に動いてくれたようです」
養父母への調査も既にはじまっている。この件が執政の耳に届いている以上、間違いなく適切な処分が下されるはずだ。
「それは……良かったです。掛け合ってくださって、ありがとうございました」
ようやくその顔に安堵の笑みが浮かぶのを見た瞬間、胸の奥が静かに満たされていくのを感じた。
子供が保護されたとの一報を受けた時、真っ先に思い浮かんだのはオフィーリアのことだった。今夜、時間がほしいと言われてはいた。おそらくこの相談をしたかったのだろう。
子供は無事だと、もう心配は要らないのだと、いち早く知らせてやりたかった。だから急ぎ公務を終わらせ、先触れの時間も惜しんで迎えに行ったのだ。その甲斐はあった。
「このことは私の口から直接、あなたに伝えたかった。そのせいで不安を長引かせてしまったのなら謝ります」
「謝るだなんて……そのためにわざわざ早く帰ってきてくださったのでしょう? それで十分です」
そう言って、オフィーリアは微笑んだ。青灰色の瞳が柔らかく細められ、その唇が静かな弧を描く。先ほどまでの緊張が嘘のように、穏やかな光がその表情を満たしている。
言葉以上に、そこに込められた信頼が温かかった。思わず、次ぐ言葉が出てこない。
わずかな沈黙が落ちた室内で、ベルナが冷めてしまった茶を淹れ直す。どちらからともなく手を伸ばし、それぞれの器に口をつけければ、熱の移る磁器の感触が張り詰めていた空気をほどいていく。
ややあって茶器を卓に戻したオフィーリアは、そっと両の指を組みながら視線を落とした。
「本当に、安心しました。子供達にも良い報告ができます。でも、こうなるなら……私が出過ぎたことをする必要はなかったかもしれませんね。お騒がせして、申し訳ありませんでした」
ほんの少し、恥じらうような声音だった。
「それは違います。むしろ、あなたがいたからこそ、子供たちは助けを求めることができたのです」
テオバルトが迷わずそう言えば、オフィーリアはどこか不思議そうに首を傾げた。




