第百九話 沈む光を抱いたまま
子供達から聞いた話が、頭から離れない。
『お願い、ミラちゃんを助けてあげて欲しいの』
必死に訴える声。ミラという少女のこと。その訴えは、オフィーリアが考えていたものよりずっと深刻なものだった。
ミラ——別の孤児院で暮らしていた少女は最近、公都のある家庭に引き取られた。本来ならそれは喜ばしいことのはずだった。けれど、新しい環境は幸せなものではないようだ。
漏れ聞こえる大人の怒鳴り声と子供の泣き声。軒先で泣いているミラを、子供達も職員も何度も目撃していた。
その場にいた職員にも確認したところ、子供達の言うことは概ね事実であるという。院長もすでに事態を把握しており、公都の関係機関に連絡はしたそうだが、しばらくしても事態に改善は見られない。
子供達は心配でたまらず、とうとうオフィーリアに助けを求めてきたのだ。
辛い境遇にいる友達を助けて欲しいという、その気持ちはわかる。けれど、どうしたらいいのだろう。自分の立場で、一家庭の事情に介入することはできない。それでも、虐げられている子供を見過ごすこともできない。
どうするべきか、早くテオバルトに相談したかった。しかし彼は公務が立て込んでいるようで、すれ違いが続いている——
「——奥様。髪型はこちらで如何でしょう?」
ベルナの声に、オフィーリアははっと顔を上げた。
今日はこれから茶会に招かれており、そのための身支度をしていたのだった。
「ごめんなさい、考え事をしていて……とても素敵よ、ありがとう」
いつの間にか長い白金の髪は丁寧に編み込まれている。最近はドレスと共布のリボンを髪飾りに使うのが流行りのようで、ベルナが気合を入れて仕上げてくれた。
しかし鏡越しに、心配そうな表情のベルナと目が合う。
「孤児院の件、まだ旦那様にお話しされないのですか?」
「今とても立て込んでいるそうなの。でも今夜、お時間を作ってもらう約束をしたわ」
きっとテオバルトなら、何か良い策を考えてくれるはずだ。だから今は自分のやるべきことに集中しなければいけない。
オフィーリアは改めて鏡に映る自分を見つめた。華やかな髪型に、美しいドレス。貴婦人として完璧な装いをしている。そこに、孤児だった頃の面影を見つけることはできなかった。
◇
茶会は和やかに進む。参加者はみな年齢も近く、何度か顔を合わせたことのある相手ばかりだ。
話題は流行の服飾、芸術、季節の話題。そのなかで最も好まれるのはやはり社交界の噂話かもしれない。
「ねえご存知? あのレティシア様がご婚約なさったの」
「最近あまりお見かけしなかったけれど、きっとそのことでお忙しかったのね」
「お相手はどなた?」
「幼馴染の方ですって。王宮近衛の方だそうよ」
「まあ、それは将来有望ね」
王宮近衛は大公家の護衛や城の警備を務める、大公直下の組織だ。家柄はもちろん、性格や剣の腕前など様々な適性が求められると聞いた。
適度に相槌を打ちながら、オフィーリアはレティシアへ贈る祝いの品を考える。
「そういえば、オフィーリア様は慈善活動にご熱心なんですってね」
貴婦人の一人が話題を変えた。全員の目がゆっくりとこちらへ向けられた瞬間、オフィーリアはわずかにカップを持つ手に力を込めた。
「はい。孤児院の支援を少しばかり、ですが」
「それはご立派なことね」
「子供たちもきっと喜んでいるでしょう」
「侯爵閣下は以前から孤児院支援に熱心ですものね。教育にも力を入れていらっしゃるとか?」
「孤児に対して? まあ……侯爵閣下は本当に慈善の心に篤いお方ですのね」
それらの声は軽く、深い関心があるわけではなさそうだ。どこか理解できないといった響きを含んでいる。
「子供達が自らの力で生きていけるよう、必要な技能を教えております。それが何より大切だというのが、閣下のお考えです」
慈善は貴族の義務ではあるが、通常は寄付金を渡す程度で事足りる。テオバルトのように教育にまで関わるのは異例といってもいいくらいだ。貴族社会の常識を学んでみて、改めてそう思う。
「でも、そこまでなさる必要があるのかしら。少し大袈裟な気もしますけれど」
一人がそう言えば、他の貴婦人たちも同調するように視線を合わせる。
きっと彼女たちの言葉に悪意はない。ただ、テオバルトが取り組んでいることの意義を、ほんの少しだけでも、いつか理解してもらえたらいいと思う。
「閣下は必要なところへ迷わず手を伸ばせるお方です。私も及ばずながら、その志に倣いたいと思っております」
「まあ、オフィーリア様もお優しいのね」
「きっと侯爵閣下もお幸せでしょうね」
貴婦人たちは柔らかく微笑み、小さく頷いた。それ以上この話題に深入りすることもなく、ほどなく別の話へと流れていく。
大劇場で公演されている舞台の話になった時、先日見に行ったと答えると、貴婦人たちの目が一斉に輝いた。
演出の素晴らしさ、衣装の華やかさ——弾んでいく会話に、その時ばかりはほんの少しだけ、心の奥にあった重さが和らぐようだった。




