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第百八話 白と黒の隔たり

「……まだいらしたんですね」


 驚いたように瞠目した瞳が、次の瞬間すっと細まる。イルゼ。以前聞いた名前を、オフィーリアは心の中で呟いた。


「すみません。帰りの支度が整うまで、まだ少しかかるようでして」

「そうですか。片付けをしますので、退いていただけると助かります」

「私にも、何かお手伝いできることはありますか?」

「…………」


 間違いなく聞こえているはずだが、イルゼは返事をしなかった。こちらを見もせず、壁際に寄せられていた机や椅子を手早く元通りに並べ直していく。

 オフィーリアは作業の邪魔にならないよう移動しながら、手近な机に置かれたままの楽譜を集め、さらにそれを曲ごとに並び替える。

 ふと視線を感じて顔を上げると、作業の手を止めたままこちらを見ているイルゼと目が合った。その視線には、明らかな険がある。


「私が使ったものなので、これだけでも——」

「結構です。侯爵夫人のお手を煩わせるわけには参りませんから」


 思わず口をついて出た言葉を、イルゼの厳しい声が遮る。確かに余計なことをしたかもしれないが、その明確な拒絶にオフィーリアは小さく息を呑む。

 

「お仕事の邪魔をしてすみませんでした。楽譜、こちらに置いておきますね」


 持っていた楽譜を机に置きながらイルゼに声をかけた時、ちょうどベルナが戻ってきた。

 室内の微妙な空気感を察したのか、一瞬その眉間に皺が寄ったものの、すぐに表情を整える。


「奥様。馬車の用意が整いました」

「ありがとう、ベルナ」


 オフィーリアは改めてイルゼに向き直る。茶色の双眸がどこか睨むようにこちらを見ていた。

 以前も似たような態度を取られたことがあったが、やはりあれは偶然ではなかったのだと、確信が胸に満ちる。


「本日はこれで失礼いたします。……もし子供たちのために必要なものがあれば、いつでもお知らせくださいね」


 軽く会釈をして、オフィーリアはベルナに続いて部屋を出た。


「……貴族って、本当に気楽でいいですね」


 しかし背後から投げかけられた冷ややかな声に、オフィーリアは思わず足を止める。


「歌なんてそんなものが将来、何の役に立つんですか? 私達は貴族とは違うんです。生きるために働かないといけないんです。金持ちの暇潰しに——子供達を巻き込まないでください」

「なんてことを……そのような言い方は許されませんよ! 奥様はご好意で、子供達のためになさっているのです」


 一歩前に出たベルナが厳しい声でそう嗜めたが、イルゼは引かなかった。「ご好意?」と、吐き捨てるように小さく呟く。


「貴族なんてみんなそう。いつだって気安く私たちの生活に介入するくせに、気が変わったらすぐに手を引く。私達は振り回されてばっかり。哀れな人間に手を差し伸べるのは、さぞいい気分でしょうね!」


 イルゼの厳しい言葉に、胸が詰まる思いがした。ベルナの言う通り、その態度は明らかに不敬だった。それでも、咎めることはできなかった。したくなかった。そう指摘することすら驕りのように思えてしまう。

 何より、その言葉は間違っていない。実際にこの孤児院は貴族の勝手な事情で一方的に支援を打ち切られたのだ。それによって路頭に迷うかもしれない人間がいることなど考えもせずに。

 主人の代わりにイルゼを嗜めようとするベルナに、オフィーリアは「もういいわ」と告げた。まるで別人のもののように、冷静な声が耳に届く。

 ただ胸の奥に、言葉にならない何かが沈んでいく。酷く息苦しかった。


「帰りましょう」


 オフィーリアは静かにそう言って部屋を出た。ベルナの足音が一つ、追いかけてくるのを背中に感じながらまっすぐに馬車に向かう。早く屋敷に戻りたい一心だった。

 そうして孤児院の玄関を抜けて馬車に乗り込もうとした時、自分を呼び止める幼い声に、オフィーリアは振り返った。


「大切なお話なの!」

「お願い、ちょっとだけ聞いて!」

「駄目よ、奥様はもうお帰りになるところなの。お話はまた今後よ」


 玄関から飛び出してきた子供達が、口々に何かを喋っている。ベルナと、後から追いかけてきた職員が制止しても必死に何かを訴える様子には、どこか只事ではないと思わせるものがあった。


「ベルナ、大丈夫よ。——お話、聞かせてもらえる?」


 深呼吸をひとつ。それから子供達の前に屈んで目線を合わせても、子供達の表情が和らぐことはない。「あのね——」と切羽詰まったように続く言葉に、オフィーリアは耳を傾けた。


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