第百七話 声と音の交わり
孤児院のピアノは古いが、オフィーリアが鍵盤を叩けばきちんと調律された音を奏でた。行儀良く並んで立つ子供達をぐるりと見回して「今日も楽しく練習しましょうね」と声をかければ、元気な返事が返ってくる。
ピアノの音に合わせて、子供達がそれぞれ声を出していく。無邪気に響く声は、どれも自由で伸びやかだ。
こうして音楽の指導をするようになってしばらく経つが、教えはじめた頃に比べると随分と上手になった。
「ねぇリア様、はやくお歌やろうよ!」
発声練習を何度か繰り返していると、子供達の中からそんな声が上がった。
歌——その言葉を聞くたび、オフィーリアの胸は甘く疼く。鍵盤を叩く指先に合わせて、無意識に唇が動いてしまうこともある。けれど吐き出されるのは、音にならない透明な息だけだ。
歌うどころか、子供たちに示すべきお手本の音すら、ひとつとして出すことができないでいる。
「上手に歌うためにも、まずは声を出す準備をすることが大切なのよ」
「でもさあ、キソはもう飽きちゃった」
唇を尖らせながらの、あまりに明け透けな不満に思わず笑みが溢れる。
「わかりました。じゃあ、お歌をはじめましょう」
そう言ってみれば、子供達の表情がぱっと明るくなる。歌を教えるといっても、そこまで本格的にやるわけではない。技術を高めるより、楽しみながら学んでもらうほうがいいというのがオフィーリアの方針だった。
一曲目は簡単な数え歌。ピアノに合わせて数を数えていくだけの単純なものだが、子供達には人気がある。二曲目には子供達も慣れ親しんだ童謡を。身体を揺らしながら、指折り数えながら、手を叩きながら。子供達は思い思いに歌っている。
音楽を教える側に立ち、歌との向き合い方を変えることで、もしかしたらまた歌えるようになるかもしれない——そんな一縷の希望も持っていた。
けれど何度試みても、歌おうとした瞬間、喉の奥が見えない手で締め付けられるように苦しくなる。
その痛みを、オフィーリアは慣れた手つきで心の最奥へと押し込めた。曲の終わりと共に鍵盤から指を離すと、わずかに震えていた指先を軽く握りしめてから、意識して明るい声を出した。
「みんな、とても上手になったわね。次回は新しいお歌を覚えてみましょうか」
「次っていつ?」
「院長先生と相談して、またお知らせするわ。今日はこれでおしまいね。さぁ、ご挨拶をしましょう」
オフィーリアの言葉に、子供達は揃って頭を下げると「リア様、またね」「さようなら」と口々に言いながら部屋から出ていく。
廊下へ出てもまだ歌い続けている子がいるようで、遠ざかっていく歌声がかすかに聞こえた。オフィーリアはその音が完全に消えるまで、じっとピアノの前に座っていた。
「やはり子供は愛らしいものですね」
それまで壁際に控えつつ、微笑ましそうに子供達を眺めていたベルナが言う。自身には兄しかいないベルナは、実は弟妹が欲しかったようで、時には絵本を読み聴かせるなど子供達と良い関係を築いている。
「そうね」とオフィーリアもまた笑みをこぼした。愛らしい——確かにそうだ。あんなにも自由に、何の躊躇もなく声を出せる子供たちが、今のオフィーリアには眩しくて、そして少しだけ羨ましかった。
「では、私はご帰宅の準備をして参ります。奥様はこちらで待たれますか?」
「そうさせてもらおうかしら」
言いながら、オフィーリアは壁に据えられた黒板に目を向けた。稚拙だが、真剣に書いたことが伝わる文字。特徴をよく捉えた、花や動物の絵。それらが黒板の低い位置にばかり描かれているのがなんとも可愛らしい。
あと半年もすれば年長の子供達はこの孤児院を出て、自分の力で生きていかなければいけない。住み込み先で少しでも余計な苦労をしなくて済むように、出来る限りのことをしてあげたい。学習支援は順調に進んでいるが、まだ不足している部分はないかを考えてしまう。
そうして物思いに耽っていると、背後で扉の開く音がした。もうベルナが戻ってきたのかと思って振り向いた先にいたのは、孤児院の制服を着た若い女性。
「……まだいらしたんですね」
驚いたように瞠目した瞳が、次の瞬間すっと細まる。イルゼ。以前聞いた名前を、オフィーリアは心の中で呟いた。




